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第一部あなた 第一章1
季節は秋。
その日はお天気も良く、文句のない野掛け日和だった。
伊緒理は、都から馬を駆けらせて去様の領地である束蕗原に到着すると、あの家族が待っているからと、お付きの侍女一人に案内してもらってそのなだらかな坂を上って行った。
坂の中腹まで来ると、山の頂上から一人の少女が顔をのぞかせて、伊緒理を見咎めると体全部を使って大きく手を振った。伊緒理もそれに答えるように手を振り返した。するとこちらに走り出してきた。遠すぎてその表情はよく見えていないのだが、多分満面の笑みでこちらに向かっていると思う。
あの子はいつもにこにことして笑顔の美しい子だから、見えていなくても分かる。
伊緒理は、今そちらに向かっているのだから少女がこちらにこなくてもいいのにと思ったが、何も言わずに侍女と共にゆっくりと坂を上った。
「伊緒理!」
なだらかといっても勢いをつけて下りてきたら、何かの拍子に転んでしまいそうなほどなのに、少女は裳の裾をきれいにさばきながら、伊緒理の前までやってきた。
「蓮、私がそちらに行くのだから、待っていてくれたらよかったのだよ」
「わかっているわ!でも、早く伊緒理に会いたかったの。荷物も重たいでしょうし」
伊緒理は後ろを振り向いた。蓮は伊緒理の後ろにいる侍女の片方の荷物に手を伸ばした。若い侍女は申し訳ないと手を離さなかったが。
「蓮がせっかくここまできてくれたのだから、甘えようか。一つ任せよう」
と言った。侍女はためらいながら手を離した。
「みんな待っているのよ。早く!」
蓮は伊緒理に寄り添って歩きながら言う。
「そうか。実言様もお待たせしているのか。急がないと」
伊緒理はそう言って足を速めた。
すると、隣にぴったりと寄り添って歩いていた蓮がいきなり原っぱの土に足を取られて前のめりになったのを、とっさに伊緒理が手を出して蓮の腕をつかみ、転ぶのを防いだ。
「大丈夫かい?」
伊緒理は強く連の腕を引いて立たせた。
「びっくりした。…ありがとう、伊緒理」
「どういたしまして。君は時々何もないところで転んだりするからね。目が離せないね」
と言い。
「捕まえておかないと怪我が絶えないだろうな」
と続けた。
前のめりになった蓮が態勢を立て直しても、伊緒理は手を離してまた転んでしまっては大変だと手を握ってやった。
蓮は伊緒理にしっかりと手を握られて、心が躍った。
「伊緒理、手が…」
「ん?……嫌かい?」
蓮は首を振った。
「ああ、力が強すぎたか。すまない」
と言って、手を離しそうになったのを、蓮は自ら伊緒理の手を握った。
「違うのよ。とてもありがたかったのよ。私は伊緒理が言うように変なところで転んでしまうから。ありがとう」
そう言って、蓮は山の頂上に上がりきるまでの間、伊緒理に手を引いてもらって上がった。頂上近くになると、蓮から手を離した。自然と伊緒理の手から自由になって蓮は走り出した。
「みんな、伊緒理が到着したわ」
木の下に敷物を敷いて、輪になって座っていた岩城実言をはじめとした家族と付き添いの侍女は一斉に山を登ってきた伊緒理と伊緒理の付き添いの侍女を見た。
輪の中から一人青年が立ち上がって、伊緒理の後ろをついてくる侍女へと歩み寄った。
「重かっただろう。後は私が持とう」
といって、侍女が持っている荷物を引き受けた。初めは首を振っていた侍女だが、この青年の人となりを知っているので、差し出した手が荷物を持ったところで、自分の手を離した。
「久しぶりだね、実津瀬」
伊緒理は荷物を持って後ろから追いついた実津瀬に言った。
「本当に。伊緒理とはこの束蕗原でしか出会わない。今度は都で会いましょうよ」
実津瀬はそう返した。
「私は都といっても、外れに住んでいるし、何かわからないことがあればこちらに来て去様にいろいろと教えてもらうために、何日も泊まってしまうことがある。去様からとうとう部屋を与えてもらう始末でね。最近はこちらにいる方が多いくらいなのさ」
伊緒理は自然と輪の空いた場所、小柄な女人の隣へと座り、その向こうにいる男に頭を下げた。
「実言様、お久しぶりでございます」
呼ばれた実言は伊緒理の方に顔を向けて笑顔になった。
「伊緒理、元気そうだね。君は束蕗原にばかりいるそうじゃないか。荒益が息子は都にいないと言って嘆いていたよ。同じ邸に住んでいないのだから、頻繁に顔を見せてあげておくれ。荒益は寂しそうだった」
伊緒理は父、荒益のことを言われると、なんとも返事に困った。
母を亡くした後、父と弟のいる邸に一緒に住もうと言われたが、伊緒理は頑なにそれまで祖母と住んでいた都の外れにある別邸に住むと言ってきかなかった。まだ幼いのだから、父の目の届くところにいておくれと、懇願されたが伊緒理はうん、と首を縦には振らず、祖母と一緒に住むことを選んだ。その祖母が亡くなったら、そのまま一人別邸へ住んだ。幼かった伊緒理は今、一人前の男子となり、父を心配させることはないが、父荒益は子供の頃から離れて暮らした長子の伊緒理を何かと気に掛けているのだ。
「……実言様にご心配をかけてしまいまして痛み入ります。都に帰りましたら、父に顔を見せに行きます」
伊緒理はそう言って頭を下げた。そして、すぐ隣に座る女人に顔を向けた。女人も伊緒理を見つめて笑った。
「礼様」
「久しぶりね、伊緒理」
「お目にかかるのはとても久しいですが、いつも、お手紙をいただいていますからね。私はいつも礼様から話し掛けられているような気がしています」
「そうね。あなたもまめに返事をくれるから、顔を合わせなくてもよく話をしている気分ね。あなたは勉強熱心だから、去様から、伊緒理にあの本を読ませてやってくれと言われるのよ。だから手紙と本を頻繁に渡してしまうわ」
「すみません。本当に、いつまでも礼様にお世話をかけてしまって」
と伊緒理は頭を下げた。
「そして、いつも、本を書き写してくださりありがとうございます。とても、美しい字で、私は見惚れていますよ」
「まあ、本当?」
礼は嬉しそうな顔をして、伊緒理の反対隣に座っている娘の蓮を見た。
蓮は伊緒理の隣に座って妹の榧(かや)の面倒を見ていたが、背中では母と伊緒理の会話を聞いていた。写本の話になったので、母の方へと視線を送った。母が笑ってこちらを見ているので、目で合図をしたが、蓮の気持ちなどお構いなしに、母は言ってしまった。
「伊緒理、あれはね、蓮が書いているのよ」
「え!」
伊緒理は驚きの声を上げて、左隣に座っている蓮を振り向いた。蓮は顔で言わないで、と言っていたのに、母から隠していた秘密をばらされて、すぐに伊緒理に背を向けた。
「蓮!君が書いていたのかい?」
蓮はすぐには答えず、少しの間背中を伊緒理に向けたままだった。
「蓮、そうなの?」
蓮は恥ずかしそうに下を向いたまま、伊緒理の方へ向き直り。
「はい」
と返事をした。
「そうなのか!教えてくれればよかったのに、もっと早くに君にお礼が言えたのに。ありがとう。写本の文字は流れるように美しくて、そしてこれが一番だけどとても読みやすい。読んでいて書かれている内容がすぐに頭の中に入ってくる。原本と比べてみても断然写本の方がいいんだ。ああ、そうなのか、てっきり礼様が写してくださっているのかと思っていた。蓮、本当に早く教えてほしかったよ。ありがとう。私の勉強をとても助けてくれているんだよ、君の筆跡は」
伊緒理はにこにこと笑って、恥ずかしそうにする蓮の様子を見ている。それはとても優しい眼差しで、蓮は嬉しくて顔を上げられない。
伊緒理は子供の頃からの夢である医者になる道を邁進している。礼について薬草を勉強し、伊緒理の父が懇意にしている医者にも、下働きとして使ってもらっている。また、大叔母にあたる束蕗原の領主、去の元で他の学生たちと共に学んでいる。だから、都の離れの邸とこの束蕗原を行ったり来たりしているのが常なのだ。
「蓮、いつかこのお返しをしないといけないね」
蓮は恥ずかしそうに下を向いたまま、こくりと頷いた。
その様子を、両親、兄の実津瀬、侍女たちは温かい目で見つめていた。そのほかの者たちはまだ十も歳の行かない子供で、体を触りあって遊び、空を飛ぶ鳥に目をやっていた。
「では、食事をいただこうか」
実言が言うと、皆は目の間に広げた料理に手を伸ばして好きなものを取った。最初に来ていた礼や蓮が魚の煮たものや青菜、栗の蒸したものなどを持って来ていて、あとから登ってきた伊緒理と侍女が持って来たのが飯を握ったものと、果物だった。
青空の下で、心地よいそよ風に吹かれて食事をするのは気持ちよい。みんな、わいわいと食事の感想を言い合ったり、隣に座る若年の者の世話をしたりと一時を楽しんだ。
礼は自分と夫の実言の間に座る少女、珊が食べたいと言って指さした川魚の煮たものを取ってその小さな膝の上の柿の葉の上に載せた。珊の小さな膝では、魚が落ちてしまいそうなのを、礼が手を添えて葉の端を持ち上げてやり、一生懸命に箸で魚の身を取って口に運ぶのを見守った。
「珊、へたくそだなぁ」
実言の隣に座って、握った飯をほおばっている宗清が言った。
珊は頬を膨らませて膝立ちになってこちらを見ている少年を睨んだ。
「珊、気にすることないわ、ゆっくりとお食べなさい」
礼は言って、珊に食べることを続けさせた。
「宗清、そんなことを言うものではないよ。下手も何もないさ。珊はきちんと食べているよ」
実言はそう言って、末っ子の宗清をたしなめた。
宗清はバツが悪そうに舌を出して、父の隣に腰を下ろして手に持っていた握り飯をほおばった。
宗清は実言と礼の間に生まれた四番目の子供である。末っ子の奔放さと、男子の活発さが勝ったやんちゃな子だ。
「宗清、あなたこそ行儀が悪いわ。立ったり座ったりと。きちんとしなさい」
と、母の声が止めを刺した。しゅんとして黙々と握り飯を食べた。
「宗清、お前の好きな栗の蒸し物があるよ。お食べよ」
そう言って、兄の実津瀬が柿の葉に栗の蒸し物をよそって、宗清の膝頭の前に置いた。
宗清はぱっと顔を上げて、兄の顔を見た。
「たくさんお食べ」
そう言って、実津瀬はもう一つ握り飯を取ってやった。
蓮は蓮で隣に座っている妹の榧を手伝っていた。大人しい榧は放っておけば自分から意思表示をするはない。何も食べずにそこに座っていることもあるくらいだ。蓮は妹が好きな魚の煮物や栗の蒸し物を柿の葉の上にとって、その前に置いてやった。
「姉さまも食べて」
榧はそう返事したが、姉は次々に料理を取っては妹の前に並べた。
「私は食べているから、あなたも食べなさい」
と言って、反対隣に座っている伊緒理を見た。
「伊緒理、何か欲しいものはない?遠いものは私が取るわ」
伊緒理は微笑んで。
「ありがとう。そうだなぁ、栗の蒸し物がおいしそうだ。それを食べたいな」
「わかったわ!任せて」
蓮は嬉々として栗の蒸し物の入った箱から柿の葉に少しばかりの栗を取った。
お供の侍女たちは遠慮して何も取らずに輪の後ろにいるところを、実津瀬はすかさず握り飯と煮魚をそれぞれ柿の葉に取って目の前に置いた。
「遠慮することはないよ。食べておくれよ。どうせ、食べきれないほど持って来ているのだから」
実津瀬はそう言って、握り飯をほおばった。
侍女たちは実津瀬の様子を見て、膝の前に置かれた柿の葉に載った食事に手をつけた。
伊緒理は皆が食事する様子を見回した。
実言と礼という両親のもとに生まれた四人の子供が、自分のようにこの両親に縁のある者が、侍女たちが、皆が楽しそうに食事を共にしている。
なんとも幸せな光景である。
伊緒理はこんな家族が欲しかった。それは両親と弟と作ることは叶わないことではあるが。自分の欲しいと思う家族は今目の前に広がる光景だった。
それを見ることは自分に幸福を感じさせてくれた。人の家族の幸せではあるが、その中に入れていることが嬉しかった。そして、いつか、自分がこのような幸せの根源になることができるかもしれない。なりたい。
それが自分のささやかな夢となっていた。
このような大家族が楽しそうに過ごしている姿を自分が作ることを。
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