第一部あなた 第三章27

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第一部あなた 第三章27

 踏集いの広場まで来た実津瀬は、池へと馬を進めた。  房の話では、芹が戻って来た時のために供の侍女を待たせていると言っていた。もしかしたら、という淡い期待を抱いたのだ。  芹と並んで座っていた池のほとりに辿り着くと、対岸に女人が立っているのが見えた。  あれが残してきた侍女か、と実津瀬は声を張り上げて訊ねた。 「芹は!」 「まだ」  対岸の侍女も口元に手を当てて大きな声を出しているが、最初の言葉しか聞き取れない。しかし、それで十分だった。芹はここには帰って来ていないのだ。  実津瀬は馬の頭を広場の方へ向けた。  盗賊が都に入り込んでくるという話は、以前、景之亮から聞いていた。隣に蓮がいて、景之亮と二人切りになれないことを恨めしそうに見ていたが、景之亮は気にせずに話をしてくれた。盗賊が都に与える被害や宮廷がどのようにして都を守ろうとしているかを聞いた。その中で、都の警備兵が突き止めた野盗の根城の大体の場所を聞いていたのだ。  踏集いの広場に戻って、池の周りを囲う林を迂回した向こう側に向かうために北西に馬を走らせた。目の前に大きな樹々の立つ林の中を突きって行くと、広い野原に出た。野原は広く目の前には緑しか見えないが、遠く向こうには背後のある林が続いており、そこに盗賊が暮らす洞窟や小屋があるというのだ。  芹が盗賊に掴まったとは決まっていない。だが、侍女が立っていた方向に向かって芹が林の中に入って行ったのなら、出て来るのはこのあたりになるはずだ。盗賊に出くわしてもおかしくない。  まずは池に向かって林に入ろうか。女人の足ではそう遠くにも行けないだろう。  実津瀬は冬に近づいた空気を肌に感じながら、馬とともに颯のごとく走った。  左手側に池の北側を覆う林の端が見えた。広い広い野原の端のどのあたりに目星をつけたものか。  このまま走っていては盗賊の住まう方の林に辿り着いてしまう。芹一人でこの広い野原を横切ったりはしないだろう。やはりは池に向かって林に入ろう。  実津瀬の迷いは馬の脚を緩やかにした。ゆっくりと野原のなだらかに下がって行く斜面をそのまま下りて行くと、視界の端に動く影が見えた。  実津瀬は影の方へ顔を向け、何なのかを見定めようとした。  とても速く動くそれは、一見すると真っ黒い塊なので、熊のような動物か小さな馬が駆けているのかと思った。  熊であれば、こちらに気づかないうちに離れて行くのが得策だな……  実津瀬はこれ以上近づかないようにと手綱を引きかけた時、黒い塊が二足で走っているのがわかった。  獣ではないのか?  実津瀬は目を凝らした。  人間なのか?頭の先から足の先まで真っ黒だが。  そして肩のあたりには何か別の物が載っていると分かる。それは、黒ではない色が見えるからだ。大体は深い緑色に覆われているが、赤や黄の色も見える。  男の背中側になびく黒いものが長い髪だと分かった時、女を肩に担いで走っているのだと気づいた。  そうとわかると実津瀬は体の中を稲妻が通り抜けるような衝撃で悟った。  芹だ。芹が攫われているのだ。  馬の腹を蹴って一気にその黒い者の背後へと近づいた。  馬の蹄の音が聞こえたのか、黒い者は後ろを振り返った。  真っ黒な顔が振り向いた時、どこに目があるのかわからなかったが、目が動いて真っ白な白目が見えてそこが目の位置だと分かった。  この全身真っ黒なみすぼらしい風体の男は盗賊の一味だな!そして、肩に担いで運んでいるのはきっと芹なのだ。  盗賊の男は振り返えると、馬に乗った男が追いかけてきているのに気づいて、進路を最短で林の中に突っ込む方向に切り替えた。  林の中に入られては厄介だ。  男の進路変更に気づいた実津瀬は、その前に男を止めなくてはと、再び馬の腹を蹴って速度を速め、男を追い越した。  走る男の体が上下するのに合わせて、肩に担がれている芹の腹を押し上げ、芹は苦しさを感じたが吐き出すものもない。  意識を手放してしまいそうになっていたところ、後ろから馬の足音が聞こえた。  この汚い男の仲間かしら。逃げる気力がないけど、万が一にもこの男から逃れられても、仲間に掴まるかもしれない。運にも見放されたのだ。  芹は朦朧としながら、絶望的な気持ちになった。  疾風が傍を駆け抜けて、その風圧が髪を勢いよく洗うように撫でた時、声が聞こえた。 「待て!先は行かせない。止まれ!」  その声に、芹を担いでいる男は雄叫びを上げた。 「うおおぉぉ」  野太い声とともに、男は走る足を急に止めようとして、担がれている芹の顔は男の背中にぶつかった。  衝撃によって目が覚めたのではない。「待て!」「止まれ!」と言ったその声に意識が戻ったのだ。  どうしてここに?  その声はきっと房が私に会わせようとしていた人。私が会いたくないと思っていた人……  盗賊の男は目の前に入り込んで来た馬とそれに乗っている男を見上げた。  馬は強く手綱を引かれて、急激な制止の力に前足を上げた。上がった前足が体の上に覆いかぶさってきそうなところを盗賊は後ずさりしてかわし、左に体の向きを変えた。  左手には盗賊の根城を隠す林が広がっているのだ。  実津瀬は盗賊が体の向きを変えたのを見て、すぐに馬をその前に回り込ませた。  林の中に入られては芹を取り戻すことが難しくなる。  実津瀬は馬から飛び降りてすぐに腰に下げていた剣を振り上げた。  今日は弓を引くつもりで、腰の剣など必要ないと思っていたが、こうして振るう時が来るとはな、と思った。  盗賊の男は、目の前に下りた男が振り下ろした剣を一旦、後ろに下がってかわした。そして、肩に担いでいる芹を下ろし抱き寄せた。 「その人を置いていけ。そうすれば、この場は逃がしてやる」  実津瀬は言ったが、真っ黒な顔は実津瀬を凝視し、芹を抱く腕の力を強め、逆の手を後ろに回した。  盗賊は一枚の布を片方の肩に掛けて垂らし、体の前後を覆って腰に何重にか巻いた帯で止めている。その帯に差した剣の柄を握るとゆっくりと引き抜いて、低い声で言った。 「お前の言うことなんて信じるわけがないだろう」  盗賊は剣を体の前に突き出し、胸に抱えていた芹の顔を実津瀬方に向けて、顎の下に腕を入れた。 「思ったよりも早く連れが来たもんだ。思惑が外れたなぁ」  盗賊は目の前に現れた男が腕の中にいる女の連れだと思った。  男は剣を芹の顎の下に通した手に持ち替えて、空いた手を広げて芹の顔を覆い親指と人差し指で両頬をつまんだ。力任せに芹の頬は押されておかしな表情になった。  実津瀬はそれまで盗賊の方を向いていた顔がこちらを向いて、はっきりと芹だとわかり安堵したものの、芹の恐怖に引きつった顔を見ると一刻も早く助けなくてはという思いが湧きおこった。 「従えないというのであれば、容赦はしない。力づくだ」  実津瀬は言うと、剣を前に突き出した。  もちろん男の体目掛けたのだが、当然男は盾として芹の体を前に出してきて、実津瀬は急いで剣を引っ込めた。  盗賊が林の方へ走るところを、実津瀬は回り込んで阻止する。盗賊は実津瀬が目の前に立つと剣を振って、芹の体を押し出し、実津瀬に手を出せないようする。そして、また林の方へと近づいて行くのだ。  男はしつこい実津瀬の相手をしながら、少しずつ自分の思う方へと動いて行く。  実津瀬は少しばかり焦りを感じた。こんなことを続けていては、芹を救い出せない。  まるで芹は蛇に巻き付かれた小動物だ。林の中という巣穴に連れ込まれてしまったら二度と会えないだろう。  実津瀬は、芹を傷つけないように見定めて、大胆に剣を振り下ろした。  盗賊はひらりと体を横にして、背中で剣をかわすとすぐに体の正面をこちらに向けて芹を盾に使う。  その時、実津瀬は剣を盗賊の足元の地面に突き刺さるように勢いよく投げた。  盗賊は後ろに飛ぶように後ずさって剣を避けた。剣は地面から跳ね返って、草の上で踊り静かになった。  実津瀬が手元を狂わせて剣を手放したことを盗賊の男は嘲笑したが、その顔はすぐに驚きの表情に変わった。男が低い体勢で近づき、そのまま自分の右手を掴んだのだ。  実津瀬は剣を前に出して牽制し合っていてはだめだと思い、接近戦を挑んだのだった。あえて武器を捨てて隙ができたと見せかけて相手が油断したところに、体ごとぶつかり盗賊が手にしている剣を奪うことにしたのだ。  実津瀬は剣をもぎ取ろうと両手で剣の柄を握る盗賊の指をはがそうとする。それに盗賊は抗って、足を出して転がそうとしたり、頭突きを見舞おうとしたりする。その間も左腕の中の芹の頭を離すことなく、むしろより腕が締まって、芹の息を止めそうになった。芹は首の間に隙間を作ろうと、男の腕に爪を立て、引き離そうとするが無力に等しい。  実津瀬は男のやることを真似て、足を出して蹴ろうとした。空ぶった足が返って来て、盗賊の足に当たった。盗賊は後ろから払われる形で重心が崩れて後ろに反り返った。立て直そうと踏ん張ったところ、すかさず実津瀬は男の右腕を押した。盗賊は立っていられず、崩れるように膝をつき、尻もちをついた。一緒に芹も倒れて行き、男の肩に頭を打ち付けた。  実津瀬は尻もちついた盗賊の体をもう一つ押して、一旦背中を地面に押さえつけた後、剣を持つ手を地面に押しつけようとした。  動きを封じられるのを阻止しようと盗賊は持てる力を使って抗う。だが、それは実津瀬も同じで、肩、腕、手の甲と一箇所一箇所を留めるために押さえつけた。  実津瀬が盗賊の右腕と闘っている間、左腕に囚われている芹は、盗賊が苦し紛れに力を入れるので、ますます首を絞めつけられていた。  実津瀬は、右目の端に芹が苦しんでいる姿が見えたが、盗賊の右手から剣を奪うまでは芹に手を差し出すことができない。盗賊の右手の剣を奪わなければ、芹を救うことができるからだ。  実津瀬は右手の渾身の力で盗賊の右手首を地面に押しつけて、左手で剣を手握る指を掴んだ。盗賊の力は強く、実津瀬は指を剥がすことができない。膝で盗賊の手首を押さえつけ両手で指一本一本を剥がしてやっと盗賊から剣を奪えた。  奪った剣の柄を握ると、膝をついたまま躊躇なく後ろを振り返り男の太腿を切りつけた。  同時に盗賊は喉から何か飛び出してきそうなほど大きな口を開けて叫んだ。  芹は耳元で発せられた咆哮に恐怖を感じたが、同時にそれまで首にまとわりついていた腕の力が緩まったのがわかった。ここで逃げなくてはと、直感が教えた。男の腕から首を抜いて、寝たまま転がった。そのまま、両手をついて立ち上がろうと思うが、力が入らない。肩で大きく息を吸って吐いてを繰り返した。  そこへ、突いた左手の手首を掴まれて引き上げられた。叫んでいた盗賊に再び捕まえられたと心が凍った。現実を受け入れたくなくて、目を瞑った。  男は芹を無理やり立ち上がらせると、芹の腕を自分の首へとまわさせて、正面から抱き上げた。 「芹!掴まれ!私に掴まるんだ。落ちないように」  その声で我に返る。  私を抱き上げたのは盗賊ではない。  芹は反射的に腕に力を込めた。男の首の後ろで右手で左手首を掴み、男の首が抜けないように、ぴったりと左頬をおとこの右肩に付けた。  実津瀬は後ろで叫び続けている盗賊を振り返ることなく、足元に落とした盗賊の剣を蹴って遠くへやった。そして、もう一度芹の体を抱き直した。  後は逃げるだけだ。安全な所へ。 「芹!逃げるぞ!」  その声に芹は小さく頷いた。
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