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第一部あなた 第三章28
足が限界だ。
広い原っぱを踏集いの広場の方へ走っていた実津瀬は何にもないところで躓いた。芹を落とさないように、その場に崩れ落ちるようにしゃがんでから、体を前に倒した。
「はぁはぁはぁ」
息をするのも忘れてただただ走って逃げてきた。でも、ここまで来れば大丈夫だろう。
実津瀬は芹の体を抱え込んだまま、息を吐く吸うを繰り返した。
「はぁはぁ」
地面に近づいた鼻梁の先から汗が幾粒も滴って緑の草の上に落ちた。
息をして胸の苦しさが静まったが、喉のあたりは苦しいままだ。
「……はぁ……」
なぜ、苦しいままなのか……実津瀬は呼吸を整える間考えた。そして。
「……芹」
実津瀬は腕にしっかりと抱えた芹の耳元に囁いた。
芹は実津瀬の呼びかけに、身じろぎする。
「落ちないように掴まってと言ったけど、もう大丈夫だ」
実津瀬の言葉に、芹は腕の力を弱める。その時やっと、実津瀬がなぜそう言ったのか分かった。婉曲に首が締まって苦しいことを教えたのだ。慌てて実津瀬の首の後ろに回していた手を胸まで下ろした。
そこで実津瀬は抱きかかえていた芹の体を地面に置いた。
正座した芹は胸の前で左手の上に右手を被せて強く握る。それは、体が震えるのを抑えるためだと気づいた実津瀬は芹の体に腕を回して引き寄せた。
「ああ、怖い思いをさせたね。無事でよかった、本当に良かった」
芹の背中を撫ぜて、再び抱き締めた。
「……今は……違う」
芹が小さな声で言った。
「えっ……」
芹の言葉を聞き逃すまいと実津瀬は聞き返して、芹の顔を覗き込んだ。
「安堵しているの……怖いのではなくて、今は安堵して震えているのよ」
芹は顔を上げて実津瀬の顔を見た。
「いつ死んでもいい……と思っていた。死ねば綾戸の傍に行ってやれる。早く死ねばそれだけ早く綾戸に会えるって。……でも、ひどく汚くて、乱暴な盗賊にさらわれて。どこへ連れていかれるのか、どんなひどいことをされるのか。怖くて、怖くて……怖くて……誰が助けて……誰が助けに来てって、心の中で叫んでいた」
「そう、助けてもらいたかったんだね。綾戸のところに行くのではなく、生きたいと思ったんだね」
芹は首を縦に振った。
「誰か助けに来てって、誰か来ると思っていたの?」
芹は実津瀬の言葉にその時の恐怖とともに、自分の心の中をありありと思い出した。
「……誰か!誰か!と心で叫んでいた時思い浮かんだ顔は……あなただった」
芹の言葉に実津瀬は芹の顔を見ると芹も実津瀬から外していた視線を戻して、二人は見つめ合った。
実津瀬は破顔して言った。
「……そうだろう。あなたが望んだのは私だ。あなたが望んだとおりに私が助けに来た。ねぇ、私たちの間に何か縁があると思わない」
芹は自然と涙が溢れ、頬を伝った。
「もう許すんだ……自分を。弟を助けられず、自分が生き残ってしまったこと。辛い出来事だった。辛すぎて耐えるためにあなたは自分の幸せを犠牲にしようとした。本当はそんなことはないんだよ。あなたは楽しい思いや嬉しい思いをしていいんだ。時折、あの辛い思いを思い出して、悲しくなってしまうかもしれない。それでいい。泣いていいよ。その時は私があなたの隣にいてあげるよ。半分その悲しみを請け負うよ。反対に私が嬉しい時、あなたが私の隣にいて喜びを半分味わってくれたらいいなぁ。池のほとりであなたと並んで水面を見つめて話していた時のように。どう、私と一緒にいたらいいじゃない」
実津瀬は両手を上げて芹の両頬を流れる涙を親指で拭った。
「私のこと、嫌い?」
実津瀬の手が離れると、芹は首を横に振った。
「私……一度もあなたのことを嫌いなんて言ってないわ」
「あはは。そうだね、そうだった。言葉を間違えた。違う聞き方をしよう……私のこと、好き?」
芹は瞬きをして、目の縁に溜まった涙をこぼした後、大きく二度頷いた。
「そう、そうなんだ。嬉しいな……」
そこで、実津瀬は芹の肩を引き寄せ、腕の中に包んだ。
「私もだ。好きだよ」
ちょうど顎の下にある芹の耳に囁いた。それに答えるように芹も実津瀬の耳に唇を寄せて言った。
「私……あなたが優しい言葉をかけてくれるたびに、好きになって行ったと思う。もう会わないというのが、苦しかったもの。でも、その気持ちを認めたくなかった」
「強情な人だなぁ……そこまで自分を縛りつけて。でも、その気持ちも緩まった。私の願いが叶ったよ。自分を責める気持ちからあなたを解放したかったんだ」
実津瀬は芹を抱き直し、とんとんと背中を叩きさすった。
芹の震えが止まる頃、実津瀬は顔を上げた。
遠くから馬の走る音が聞こえたように思ったのだ。
誰だ。盗賊の仲間か……それとも味方か……。音の方向では味方のはずだ。味方であってくれ……。
実津瀬は祈る気持ちで音の方向に警戒の目を向けた。芹もそれに気づいて、体を強張らせた。
「実津瀬殿~」
遠くから聞こえる実津瀬を呼ぶその声は、景之亮だ。
実津瀬は安堵して、腕の力を弱めて胸の上で上を向いた芹の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、私の大切な人になってくれる。今、私たちはひどい状態だ。あなたも無傷ではないだろう。それが癒えるまでは会えないだろうから、今聞きたい」
急に答えを迫られた芹は、一旦口を真一文字に結んで出る言葉を喉元で止めている。
実津瀬が不安そうな顔をした時に、芹は口を開いて。
「……はい」
と言った。
芹の声に嬉しい気持ちが顔に出そうになった実津瀬はそれを我慢して言った。
「ん?……なんて、聞こえない。もう一度言って」
芹は実津瀬を見上げた。にっこりと笑う実津瀬を見て、少し意地悪をしていると分かった。
でも……あれほど自分の心を偽ってだが、断ってきた自分を見捨てることなく思い続けてくれたのだ。今こそ、少しの勇気をもってこの人の気持ちに応える時なのだ。
「私……あなたと……あなたの……」
その先を何と応えたらいいのか……言いよどんでいる芹だが、実津瀬は助け船を出してやらない。
「私……あなたの大切な人に……なりたい……わ」
芹はやっとのことで言うと、下を向いた。素直な気持ちを口にするのは恥ずかしい。
「うん、なっておくれ。私の大切な人に」
実津瀬は芹の体を懐の中に深く抱いた。芹は実津瀬の肩に自分の頬を置いて持たれた。
「実津瀬殿~」
馬が大地を踏み鳴らす音とともに、景之亮の声が先ほどより近づいて来た。
景之亮は野原にうずくまって抱き合っている二人の姿が見えると、手綱を引いて馬を止めて飛び降りた。
「実津瀬殿!」
あの大きな体が俊敏に走って実津瀬たちの傍に辿り着いた。
「ご無事か?怪我は?」
「景之亮殿!大きな怪我はない。盗賊からこの人を取り返すのに剣を振るってね。盗賊には傷を負わせて逃げてきた。しかし、仲間が追って来るかもしれない。警戒をしながら帰った方がいいだろう」
それを聞いた景之亮は頷いた。
「そうだな。今日はこのまま帰ろう。帰ったら宮廷に報告して、日を改めて盗賊退治をしたほうがいいだろう」
景之亮の言葉に今度は実津瀬が頷いた。
「景之亮殿、この人を安全な、安心できる場所に運んでほしい。できたら、景之亮殿自身にお願いしたい」
腕の中にいる芹の顔を見つめたまま言った。
「承知した。私がお運びしよう」
「助かります。そうであれば、父のところへ連れて行ってほしい。この人は私の大切な人になったんだ。さっきそう言ってくれたんだよ。そのことを父に伝えて欲しい。そうすれば、父が良きように差配してくれるはずだ」
景之亮は笑顔で頷いた。実津瀬の言葉から景之亮は二人の関係が良いように変わったことを察した。
「そうしよう。実津瀬殿は?」
「邸の誰か来るでしょう。連れて帰ってもらいます」
景之亮はその言葉に頷き、手を差し出した。
「芹、この方があなたを安全な場所に運んでくれるよ。お互い怪我が癒えたら会おう、ね」
芹は何度も頷いた。それを見た実津瀬は握った芹の右手を景之亮に手渡した。
「頼みます」
景之亮は軽々と芹を抱き上げ実津瀬に背を向けた。芹は景之亮の肩口から顔を出して、遠ざかる実津瀬を見ている。その表情は実津瀬の勝手な思い込みかもしれないが、愛しみのあるものだった。実津瀬は膝に置いていた右手を上げて、芹の視線に応えた。
景之亮の体が遠ざかるのと反対に、徒歩でこの原っぱに辿り着いた狩りの手伝いの男たちや岩城家の従者が現れた。従者二人は実津瀬を見つけると顔色を変えて実津瀬の前に座った。
「実津瀬様、ご無事で。どこかお怪我が」
「うん、盗賊相手に剣を使って、いくつかかすり傷ができた。それに逃げる時に足を挫いてね、実は立てないんだ。手を貸してくれる」
舎人達は実津瀬の両側に膝を立てて座った。実津瀬は両腕を上げて脇の下に肩が入ると、呼吸を合わせて立ち上がった。
「あ、たたた……」
足に痛みが走り、実津瀬は思わず声が出た。これでは数日何も出来ないな、と思った。
両脇から支えられて痛い右足を着かないように片足でぴょんぴょんとと飛んで、引かれてくる馬の傍まで歩いた。
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