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第一部あなた 第三章29
「待って!もう少しゆっくりと」
よどみなく言葉を発する実津瀬に蓮が待ったをかけた。
「ああ、悪い」
「ええっと、あなたはもう起き上がって生活していると聞いて、安心しました。私は足の痛みが引かず、もう少し褥の上で横になっています。あなたに会うのはもう少し待たなくてはなりません……だっけ?」
「うん、そう……足が治ればすぐに会いに行くから、それまではあなたに会いたい気持ちを押さえて過ごします。あなたも私と同じ気持ちだったら嬉しい……」
続きをとうとうと話し始めた。
机に向かっている蓮は実津瀬の言葉を紙に書きとる。実津瀬は褥の上に起き上がっていて、どんな言葉で自分の気持ちを表そうか考えている。
蓮は一日おきにこの役をやっている。実津瀬とそして片思いから相思になった芹への手紙の代筆をしているのだ。
あの狩りの日。狩りのために集まった若者たちは、芹を探すために、池の方から捜索する者、実津瀬を追うために馬を用意する者など景之亮に指示されて、踏集いの広場周辺を走りまわったのだった。林の中の捜索を担ったある者は歩いていると、鹿に遭遇して思わず手にしていた弓を発射して命中した。当たった、当たったと喜んでいると、別も者からあっちこっちで人が女人を探しているのだから、獲物と人を間違えたらどうするのだ、と怒られる一幕もあった。
芹の無事が伝えられてからは、一同は岩城本家に帰って、人探しの労をねぎらわれ、狩りの後の宴会に準備していた酒と料理をふるまわれたた。本家で待っていた蓮は、帰って来た稲生から景之亮も実津瀬も五条の邸に戻ったと聞いて、慌てて藍と絢に後のことを頼んで帰った。
芹は景之亮の手によって岩城実言邸に運び込まれた。女主人の礼が景之亮の腕の中の青ざめた顔の女人をみると、理由も聞かずに部屋へと案内した。
途中。
「今から怪我をした実津瀬殿が帰ってきます」
と景之亮が耳打ちした。それだけで、大体のことを察した礼は頷いただけだった。
褥の上に芹を横たえさせたらそこで景之亮の一の仕事は終わった。すぐにこの邸の手当てになれた侍女たちが芹を囲んだ。
庇の間で景之亮は二の仕事のために、礼に訊ねた。
「実言様は……」
「ちょうどよく邸にいるわ。この騒ぎを気にしているかもしれない。説明してあげて。案内させるわ」
礼は近くの侍女に景之亮を実言の部屋まで案内するように言った。
景之亮は実津瀬から頼まれた、抱えてきた芹という女人のこと、そしてその女人と実津瀬の仲を実言に話したのだった。
芹は一日、実言邸で寝て過ごすことになった。
あとから、鷹野に連れられた房が来た。お互いに泣いて謝った。姉妹で一晩邸に泊めてもらい、翌日須原の邸に帰った。左目に眼帯をした女人がまだ休養が必要だと、芹が帰るのを止めるのだが、これ以上の迷惑をかけたくなくて、芹は房と一緒に帰った。
かすり傷程度で大きな怪我はしていないのだが、体は疲れ果てていて邸に戻ると父の怒りの言葉もあって寝込んでしまった。
後から帰って来た実津瀬は、部屋に用意されていた褥の上に寝ると、母の礼と男医師の佐田祢から手当を受けた。次に部屋に来た父の実言と景之亮から、岩城本家の様子や芹のことを聞いた。そこまで聞くと、急に眠気に襲われて丸一日死んだように眠った。目が覚めた時には芹はこの邸から去ったあとで、それを知ると暗い顔をして黙っていた。翌日、蓮を呼ぶと、机の前に座らせて書き取れと言い、芹への気持ちを滔々と語り始めたのだ。
これが文通いの始まりである。
愛の手紙を声にして人に聞かせて、書きとらせるなんて実津瀬らしい。こんなことを恥ずかしげもなくできるのが実津瀬だと蓮は思った。兄が言葉にする自分の気持ちを心を込めて文字にした。心を込めるのは手紙を受け取った芹と房から、美しい文字と褒められたのもある。
実津瀬は最初にこの手紙は代筆で妹が書いていることを手紙の中で伝えている。それを読んで、返事の手紙を送って来た芹もまだ床に臥せていたので、妹の房に代わりに書いてもらったと書いてきた。二人とも信頼のおける妹に恋文を代筆してもらったということだ。
芹からの手紙の中には、時々妹の房が、代筆しながら房自身の気持ちを書いているところがあって、実津瀬と蓮は一緒に読んでおもしろがった。
蓮の字は誰もが褒める美しいものである。房も芹もその文字にうっとりしていた。だから、房は内容はともかく私の下手な字で実津瀬の気持ちが沈むのでないかと最後の方に書いているので、実津瀬も蓮もそんなことはないと返事を書いたりするのだ。
蓮は兄の好きな人への思いに赤面したり、こんな言葉を景之亮から言われたいと思ったり、一つ一つの言葉を想像しながら代筆をすることは楽しかった。
お互いを思いやる言葉を手紙で交わし合う二人が、顔を会わせた時にはどのような言葉を発するのだろうかと、想像した。
足を挫いた実津瀬の足の腫れはまだ引かず蓮の代筆が続いているが、芹の体は回復して、今は芹自身で手紙の返事を書いている。
今日も昼に実津瀬付きの舎人が持って来た手紙を階の下までおりて受け取り、丁寧にお礼を言って見送った。
庇の間に入ったところで、芹はその場に座り手紙を開いた。
まぁ!
いつも恥ずかしくなるほどの優しい言葉が書かれていて、今日も頬が緩んでしまうのを左手を添えて留めた。
手紙に夢中になり過ぎて、房が庇の間に入って来たことに気づかなかった。
後ろから房はそっと身を乗り出して手紙を盗み見る。
「まあ、とても気持ちのこもったお手紙。だから姉さま、にんまりと笑っていたのね」
房につつかれて、芹は手紙を胸に押し当てて、振り返った。
「もう!からかわないで」
「いいではないの。うらやましいわ」
房が言うと、芹は目をすがめて言った。
「房!私が何も知らないとでも思っているの?」
と言い返した。笑顔の房はさっと表情を戻した。
「あなたはあなたで文を書いているでしょう。相手は」
「姉さま!どうして」
「それは、あなたの部屋を覗くと机に向かって何か書いているのを見かけたし、庭で知らない男の人に手紙を渡しているのをみたのよ。知らない人がうちに入っているのはおかしいと思って、訊いたのよ。そうしたら、岩城本家に仕える人だと教えてくれたわ。私と実津瀬様の仲を心配してくれたのは、あなたと岩城鷹野様ですものね。私の知らないところで、二人は繋がっていて、それは今も続いているのでしょう」
「まあ、知っていたのね……」
ふふふっと芹は左手の袖で口元を覆って笑った。
「いいじゃないの。あなたも手紙を書いているときはとても真剣で楽しそうよ。どんなことをやり取りしているの?」
「お互いの日々の出来事を知らせているだけよ……私の知らないことをよく知っていらっしゃるから楽しいのよ……」
房は答えたが、芹のじっとりと見つめる目に房は負けた。
「……どこが良いのか……私のことを気に入ってくださって……その……」
口ごもりながら話すが、核心までは進まない。
「でも、粟田様のことがあるから……私……」
粟田というのは、踏集いで房のことを見初めた男である。お見合いの日にちが決まっていたが、その前に芹と房は踏集い近くの池へと出かけ、芹が盗賊に攫われかける出来事があった。その時、芹と実津瀬の気持ちが成就した一方で、助けを求めた房は鷹野が終始傍で守ってくれ、何かと気に掛けてくれて、安心できた。それまで、芹と実津瀬の縁を切らせまいと鷹野とは正直な気持ちを手紙でやり取りしていたからこの時も、なぜ踏集いの池に来ていたのかを房は鷹野にだけは打ち明けた。
実津瀬の手紙を持った遣いが現れて、文通いが始まったわけだが、書いた手紙を遣いに渡す時に房は秘かに訊ねたのだった。
「あなたは……岩城鷹野様にも会うことができますか?」
少し怪訝な顔をした男は、しかし、頷くと、房は胸に折りたたんで挟んでいた手紙を取り出した。
「申し訳ないのですが、この手紙を鷹野様にお渡しいただけませんか?実津瀬様と同じように、鷹野様も姉と私を助けてくださいました。感謝の気持ちをお伝えしたくて。お願いします」
戸惑い顔の遣いの男を房の潤む目が見上げるので、男は仕方なく手紙を受け取ったのだった。
その二日後に房は、粟田とお見合いをした。
会ってみたら、記憶の奥から粟田の顔が浮き出てきた。確かに踏集いで話をしたことがあった。
房の手を握って語られる耳障りのいい粟田の言葉に房は心が躍るのを感じた。再会を願う熱烈な言葉に、房は頷いて帰って来たのだ。
しかし、帰ってきたらそれを追いこす勢いで、鷹野の遣いと名乗る男が手紙を持って現れた。
返事はいらないと思っていたのに、こうして突然にもたらされた手紙が嬉しく、房は受け取るとお礼を言って部屋の奥まで行き開いた。
手紙をくれたことが嬉しいと率直に書かれていた。続けて、今の実津瀬と芹の様子を聞くと、我々のおせっかいが無駄ではなかったね、とあった。
本当にそうだわ…と芹は自然に笑顔になった。
手紙の最後に房に、会いたい、と書かれていた。
あなたのことが気になっている。多分、この気持ちは恋だと思う。あなたのことが恋しくて会いたいのだ。
房は驚いた。会うなんて……今日、粟田様と次に会う約束をしたというのに。
鷹野の手紙に胸の中がざわついて来る。
自分はこの手紙にどう返事したらいいのだろうか。
房は自分の気持ちを決めかねたまま、鷹野に返事を書いた。会うとは明言せずに、数回ほど手紙のやり取りをしている。
芹は房の手を取って言った。
「実津瀬様と私のことを心配してくれたあなただもの、恋のことはよくわかっているでしょうから心配していないわ。素直な気持ちが大切なのでしょう」
芹は言うと、奥の部屋に入って行った。実津瀬からの手紙をもっとゆっくりと読み味わいたいのだ。
房は姉の後ろ姿が几帳に隠れると、自分の部屋に戻った。机の前に座ると、筆を取って暫く考えて、紙に置いた。そして、二通の手紙を書き上げたのだった。
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