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第一部あなた 第三章30
足の痛みは完全には引かないが、いつまでも寝ていられないと実津瀬は、奥の褥を引いた部屋から三方の御簾を上げさせた隣の庇の間まで這って行って、秋の深まった庭の景色を眺めたり、やって来た小さな弟妹と話をしたりとゆったりとその日を過ごした。
小さな弟妹たちを部屋に帰した後、入れ替わり蓮がやって来た。
「あら、もういいの?」
手紙の代筆をしに来た蓮は、庇の間に足を投げ出して座っている実津瀬に言った。
「まだ、足は痛いんだ。母上は無理してはいけないというのだけど、寝てばっかりじゃあ退屈でね。ここまで這って来たんだ」
「確かに、足の他は元気ですものね、寝てばかりは辛いわね。でも、少し寒くなったわ。奥の部屋に戻りましょう」
痛めていない方の足で立ち上がり、すぐに蓮が脇に肩を入れて支える。痛めた足をできるだけ突かないようにして、几帳の中まで歩き、起き上がったままの乱れた褥の上に二人で倒れ込んだ。
「はぁ、実津瀬は重いわね。疲れたわ」
蓮は実津瀬にもたれて言った。
「悪かったね、力仕事をさせてしまって」
蓮は笑って、褥の上から下りようとした時、几帳の後ろから声がした。
「実津瀬……あ、蓮もいるのか、丁度良かった」
声で二人は誰が来たのか分かった。実津瀬も蓮も居住まいを正した。
几帳の間から入って来たのは父の実言だった。
「二人とも楽しそうだ。仲が良くていいね」
父に言われて二人は目を見合わせて、にっこり笑った。
「実津瀬はまだ起き上がれないんだって?」
「はい。まだ、痛みが引かないのです。母上から無理をしてはいけないと言われているのですが、いつまでも寝ていられないと思って、隣の部屋まで這って行ったのですよ」
「そうそう。実津瀬をここまで連れ戻すのに、私が肩を貸したのです。実津瀬の体が重たくて、ふらふらしながらここまで戻ったの」
蓮が言った。
「そうか。秋の祭りに実津瀬の舞が見たいという人が大勢いてね。断るのが大変なんだよ。そんなに悪いのでは、新年の祝いの宴でも十分な舞は舞えまいね」
父に言われて、実津瀬は頷いた。
雪を失ってから本格的な舞は舞っていない。やっと、練習を始めたところだったが、再び怪我をしてこうして歩くこともままならないのだから、大王からお褒めの言葉をいただけるような舞を舞うのはもっと先のことだ。
「そうそう」
実津瀬から隣に座る蓮に実言は視線を移した。
「景之亮から言伝を預かって来たよ。景之亮はどうも、風邪を引いたらしい。熱があるようだよ。だから、蓮には当分会いに来られないとね。宮廷で会った時に聞いたのだ」
「ええっ!私!私!」
「それを聞いて礼には話した。もう、礼が指示しているよ。佐田祢が供を連れて、熱冷ましの薬などを持って景之亮の邸に行ったはずだ。蓮は景之亮が元気になるまで待っていなさい」
「……私も連れて行ってほしい」
「傍によってうつってもいけない。景之亮は喉が腫れているのか、かすれた声で、うつってはいけないのでこれにて失礼しますと言って走って帰っていったよ。景之亮もお前に病気をうつらせたくないはずだよ」
蓮は頬を膨らませて不満げな表情を見せたが、実言はにこやかに目尻を落として実津瀬の方へ視線を移した。
実津瀬が宮廷に見習いとして仕事を突然休んだので迷惑が掛かっていることを実言が詫びに行った話をしている。しかし、蓮の耳には遠い話に聞こえた。
景之亮様……大丈夫かしら……
蓮は不安な表情で俯くと、几帳の後ろで蓮を呼ぶ声がした。
「蓮、いらっしゃい。佐田祢が帰って来たから」
母の礼が呼んでいる。
「はい。お父さま、私、お母さまの部屋に行ってきます」
「うん、そうしなさい。私は実津瀬とまだ話したいからね」
蓮は立ち上がると几帳の裏へと向かった。母の礼は、庇の間から簀子縁に出るところだった。
「お母さま!景之亮様は?」
「熱を出されて、寝込んでいらっしゃるのよ」
「そう……私……」
「お邸の方がつきっきりで看病されるそうよ。明朝に、また佐田祢に行ってもらうわ。だから、蓮は景之亮様が回復するまで待っていなさい」
父だけでなく、母にまでにも看病は待てと言われて、蓮は悲しくなった。
景之亮様の傍には誰も行かせてくれない……。
翌日、蓮は夜明け前に起きていつものように薬草摘みをしていると、佐田祢と母が薬草庫に入って行くのが見えた。蓮も急いで薬草庫に入った。
「景之亮様のところに持っていく薬草を取るの?」
蓮の言葉に二人は振り返った。
「ええ、そうよ。むこうで飲んでいただく薬草を持って行くの」
「私に用意させてください」
礼は頷いた。蓮は母の言う薬草をそれぞれ置かれている棚から取って景之亮の体を元気にしてと、思いを込めて佐田祢が持つ籠の中に入れた。
その後、母と一緒に景之亮の邸に行く佐田祢と付き添いの若い見習いの男を見送った。その後、帰って来た佐田祢から景之亮の様子を聞くと、まだ体は熱く、苦しそうに息をしていたという。景之亮の邸の者が昼夜問わず看病しているとのことだった。
眉根を寄せて心配な顔をして聞いている蓮を見て、佐田祢は言った。
「お粥を食べておられました。食べる元気があるのです。帰る時には眠られていました。ゆっくりと眠れば明日には熱も下がって行くでしょう」
蓮はそれを聞いても心は落ち着かない。
本当は私が景之亮様の傍でお世話できたらいいのに……
蓮は誰も景之亮のところに連れて行ってくれないことを不満に思ったが、佐田祢が景之亮からの伝言だと蓮に向けての言葉を聞くと、不満で唇が突き出ていたのも引っ込むのだった。
「蓮、心配してくれているのだろうね。もう一日、二日寝ていれば、元気になる。そうなれば、すぐにあなたに会いに行くから、それまで待っていておくれ」
景之亮様!
蓮は部屋に帰って机に向かうと、筆を取った。実津瀬の代筆をするためではなく、蓮が景之亮に手紙を書くために。
翌早朝、佐田祢たちを見送る時に、景之亮に渡してほしいと佐田祢に手紙を託した。
庭から自分の部屋に帰る途中、奥の部屋から階の上まで一人で出てきた実津瀬が見えたので歩いて行った。
実津瀬はもう褥の上に根が生えたように座り続けるのは退屈だと、昨日顔を見に来た稲生や鷹野の肩を借りて歩く練習を始めた。
「実津瀬、だいぶ一人で歩けるようになったのね」
「そうだなぁ。今まで足を突けば痛みを感じていたからね。昨日は怖々と歩いていたのだが、それほど痛くないと体がわかったような気がする。宮廷の仕事をするためにも早く、歩けるようにならなくてはいけない」
「あら、相思になったあの人の元に早く行きたいからじゃないの?」
「それもある。芹に早く会いたいよ」
蓮はからかったのだから、照れて恥ずかしそうにするものかと思ったが、実津瀬は素直な自分の気持ちを答えた。実津瀬らしい反応だった。
佐田祢が景之亮のところから帰って来たと聞くと、蓮は急いで母の部屋に行った。
飛び込んできた蓮に佐田祢はすぐに言った。
「だいぶ良くなられましたよ。もう一晩ぐっすりと眠るといいのではないでしょうか」
その言葉に蓮は安心した。
実津瀬の部屋に行くと、痛めた足を投げ出して机の前に座っていた。芹への手紙を書いているのだ。
「どうしたの?佐田祢が帰って来たみたいだけど、行かないの?」
「行ってきたところ。ずいぶん治られたみたい」
「それは良かった」
「うん、本当に」
実津瀬は蓮の相手もそこそこにすぐに手紙を書くことに戻った。
実津瀬の隣に座って、蓮は書いている文字を見た。
「熱心ね」
「ん……そうだよ。思いもしないことがわかってね」
「なあに?」
「鷹野のやつ……」
「鷹野がどうしたの?」
「芹の妹の房殿のこと……」
「うん」
「好きになったと言っている。踏集いで別に熱を上げていた女人がいたのだが、もうそちらとは別れて、房殿を真剣に口説いたそうだ」
「まあ!」
「私と芹の間を取り持つために、文のやり取りをしていたんだ。それが、続いていつのまにか好きになったらしい。それは、いいんだ。だけど鷹野に先を越されたくない。私が先に芹のところに行くんだ。芹だって、妹に先を越されたくないだろう。手紙にもう少しで会いに行けると書いているんだ」
いつになくむきになっている実津瀬が可笑しかった。蓮は実津瀬の背中をポンと叩いて自分の部屋に戻り、明日も届けてもらう景之亮宛の手紙を書いた。
そして、翌日、景之亮の元から帰って来た佐田祢は言った。
「今朝起きたら、熱も下がり、体の痛みなどもなく、風邪は治られました。今日一日、安静にして、明日は朝から宮廷に出仕できるでしょう。景之亮様から蓮様に伝言です。明日、このお邸を訪ねるとおっしゃっていましたよ」
「そうなのね」
「もう少し待っていてほしい、とのことです」
「ええ、待つわ。嬉しい」
蓮は景之亮からの伝言を聞くと、すぐに自分の部屋に帰っていった。
ああ、やっと会える。
嬉しさで体が自然と上下に揺れる。
でも、病み上がりですぐに動けるのかしら?仕事熱心な景之亮様なら、宮廷には出仕したいでしょうけど、そこからここに来るのは体がしんどくないかしら?
蓮は黙々と頭の中で景之亮の体のことを思った。そして、ぱっと顔を上げた。名案が浮かんだのだった。
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