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第一部あなた 第三章32
夜明け前に景之亮は目が覚めた。腕の中には規則正しい寝息を立てている蓮がいる。薄暗い部屋の中で、少女のようにあどけない寝顔にしばらく魅入った。
それから、ゆっくりと蓮の体の下に引いている腕を抜いて、自身の体を起こした。
宮廷へ出仕するために部屋の隅に置いてある箱の前に行き、中の衣服を取り上げた。
蓮は人の体の温かみに包まれていた感覚がなくなり、無意識に右手が景之亮の体を探した。体に触れることができず、蓮は浅くなった眠りから覚めた。
景之亮様……?
昨夜は、景之亮の邸に押しかけて来てしまったが、結果として、景之亮と一つの褥に寝た記念すべき日となった。
なのに、その体は手を伸ばせば触れるほど近くにあったはずなのに、ない。
景之亮様がいない。ここは景之亮様のお邸ではないの?……昨夜の出来事は夢?
でも、じんわりとした体の内側の痛みと疲れが昨夜の行為は現実であるといっている。
蓮はゆっくりと体を起こした。裸の体に夜明けの空気は冷たく、昨日景之亮に脱がされた自分の肌着を引き寄せて肩からはおり、あたりを見回すと、几帳の後ろに景之亮の大きな背中が見えた。
何をしているのか、と膝立ちになってもっと遠くを見ようとした時、体はぐらりと揺れて褥の上に臥せた。蓮は驚いて、立つのをやめた。
昨夜のことで体が驚いているのかしら……。
蓮は今度は心と体の準備をして膝立ちになった。
景之亮は衣服を身に着けているのだと分かると、蓮はゆっくりゆっくりと立ち上がって、一歩一歩景之亮の背中に向かって歩いた。
景之亮が上着を着た後、帯を取って両手を後ろに回し右手に持った帯を左手に渡そうとした時、自分の右手ではなく別の手が左手に渡した。
驚いた景之亮が首だけ回して後ろを見ると蓮が帯を持っていた。
「蓮……」
「お手伝いします」
「まだ、夜明け前だ。横になっていなさい」
「ううん。お手伝いしたいの」
そう言うと、蓮は後ろから景之亮の腹の前に両手を回して持った帯を渡した。景之亮は蓮の手ごと帯を掴むと、蓮は帯から手を放して景之亮の手に帯が残った。
景之亮は手早く帯を結ぶと、後ろを振り返った。景之亮の背中に寄りかかるようにすがっていた蓮は、体を離して向き合った景之亮を見上げた。
「蓮」
景之亮の手が蓮の肩に伸びて、引き寄せて抱いた。
「私はこの邸は古くてあなたを迎えるのはもう少し待ってほしいだなんてことを言ったけど、昨夜、あなたと共寝をしたらどうでもよくなった。毎日毎晩、あなたと一緒にいたい。こんなおんぼろな邸で、仕える人も少ない。あなたには苦労をかけると思うけど」
「そんなことないわ。私は……景之亮様がいればどこでもいいの」
景之亮は抱き締める腕を解いて蓮の体を離し、その目を見つめた。
「今から、宮廷に行って来る。仕事が終わればすぐに実言殿のお邸に行くよ。そして、あなたと正式に結婚し、この邸に迎えることをお許しいただこうと思う」
「はい」
「あなたはもうしばらく、横になって休んでおいで。夜が明けたら、邸の者にお邸まで付き添わせるからね」
そう言うと、実津瀬は蓮を横抱きして持ち上げ、褥の上まで運んだ。そこに座ると衾を引き寄せて、肌着だけの蓮の背中に巻き付けるように掛けて、腰に手を回した。
「つまらない意地を張っていたものだよ。あなたに見合う男になりたいと」
「……景之亮様」
「ん?」
「景之亮様の目には、誰が映っているのかしら?」
蓮は景之亮の両頬に手を置いて自分にその顔を向けて真正面から見つめて言った。
「?……今?あなたが……蓮が見えているが……」
「うそ!本当に私だけが見えているの?」
蓮は景之亮の瞳を覗き込んで、映っている自分の顔を見た。
「なっ、なんだ?この部屋には蓮しかいないだろう!」
景之亮は蓮の言葉の真意をわかりかねた。
「景之亮様の目には目の前にいる私しか映っていないはずよ。でも、景之亮様には私を見ると、お父さまや岩城一族の誰かも見えるのでしょう?その人達に合う人物になろうとなさっているのでしょう。私しか見えていないのなら、私をすぐに傍に置いてくださったはずよ」
「蓮……」
「景之亮様、今は誰が見えるのかしら?」
「蓮だよ」
「私しか見えない?」
「蓮しか見えないよ」
景之亮は思い出した。
あれは、蓮と相思になり、婚約した後だ。岩城実言の娘と婚約したことを隠しておく気もないが、積極的に吹聴することでもないからと、自然の成り行きに任せようと思っていたが、その事実はすぐさま宮廷に知れ渡った。
そして景之亮に向けられたうらやむ声。
どうして鷹取のような小さな家と岩城家に繋がりがあるのか、鷹取景之亮はどのような手を使って岩城家に取り入ったのか、と。
ある人は、女に興味がないのかと思っていたが、その歳まで妻と呼ぶべき人を持たなかったのはこれを狙ってか、と二十五の景之亮を揶揄した。
その中でも酷い言葉は、岩城実言の娘は男に会うために一人馬に乗り、大王に謁見する行列を蹴散らしていくような男狂いだというものだった。その男とは別れさせたが、岩城実言は持て余した娘を誰かに片付かせたかったというのだ。
その男の手垢の付いた娘を押し付けられたのだと。
景之亮はたとえ、蓮にそう言った経験があったとしても、構いはしなかった。しかし、昨夜、蓮と愛欲の泉に落ちて夢中だったが、蓮はその時まで男を知らない体だとわかった。
景之亮は思いのほか自分が蓮の家柄だけでなく過去を気にしていたのだと思った。
今は、この目の前のかわいい人しか見えない。
景之亮は蓮の唇に近づいた。蓮は近づく景之亮の顔から遠ざかろうと、背を反らした。景之亮の突き出した唇が追って来るのが、蓮はおかしくて吹き出した。
「蓮!」
後ろに倒れる蓮を景之亮の手が逃がさないように囲った。
蓮は無言で魅惑的な笑みをたたえて景之亮を見ていたが、にっこりと笑って言った。
「景之亮様!大好き!」
そして、景之亮の顔に自分の顔を近づけた。
「蓮……わたしもさ、わたしだって」
景之亮は蓮の迷いのない言葉に愛しさが湧き上がる。今度こそ、景之亮は近づいて来た蓮の唇に自分のそれを重ねて吸った。
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