二つの滝(3)

1/1
165人が本棚に入れています
本棚に追加
/173ページ

二つの滝(3)

 信重の朝の習練の師範が急遽来られなくなって、 信重が小姓達を庭で散策させていると聞き、 そうなると、仙千代を呼び寄せたく思う気持ちが抑えられず、 信長は竹丸に仙千代を連れてくるよう、命じた。  もちろん、信重に近待させている小姓なのだから、 あくまで間合いを確かめた上でと竹丸に伝えたが、 そろそろ信重が朝餉の頃だということは知っていた。  昨日、小姓部屋へ菓子を持って顔を出すと、 仙千代、彦七郎兄弟、三人共がどうやら眠っていたらしく、 寝惚け状態でなくとも信長が姿を見せれば驚くであろうに、 目覚めた途端、そこに信長が居て、三人は飛び起きていた。  信長が彦七郎、彦八郎を召し出したのは、 実際のところ、仙千代に対する御付け人(おつけびと)としての側面が強かった。  昨年末の儀長城での餅つき行事の際、仙千代が伴が居ると言い、 そこで信長は仙千代の「伴」、彦七郎兄弟と会い、 小姓とすることを、実はその場で決めていた。  仙千代に幼馴染みの二人を付けておけば信長の安心が増す。 二人は剛力で、惜しみなく働き、人柄も善いと儀長城主、 橋本道一からも聞き及び、仙千代の護りとして出仕させたのだった。  とはいえ、昨日、 彦七郎が仙千代のいわば「暴走」の咎を自分も負うと言い、 信長の前に身を投げ出したことで、信長は兄弟を御付け人として 召し上げたことが間違いではなかったことを確認すると同時、 兄弟の善良さが爽快で、非常に気分が良かった。  仙千代が竹丸に伴われ、姿を見せた。 作法通りの挨拶を受けると、信長は、  「昨夜はよく眠れたか」  と尋ねた。  「はい。十分に休みましてございます」  「そういえば、写経をするのか?部屋へ行った時、 飛び起きた顔に波羅蜜多故(はらみったこ)と墨が付いておった」  書き写した紙にうつ伏せで寝込んでいたせいか、 寝起きの頬に般若経の経典が写り、まさに子供のすることだった。  「……時に致します」  「昨日は何故に?」  と言ったあと、  そうか、広小路堅三蔵(ひろこうじたてみつくら)の件か、 勘の良い竹丸からその後に考え得る沙汰でも聞いたか……  と信長は巡らせた。  「ま、……城には様々な者が居る。 仙千代はあの者の欺瞞を見抜き、天晴であったぞ。 強固な石垣もひとつ崩れれば城ごと落ちる。 あやつは己のしたことを償った。それだけのこと」  仙千代は、  「は……ははっ……」  と畏まり、(こうべ)を垂れた。  十三まで取り合えず信重に近待させ、 文武を学ばせて過ごさせ、 その時点で仙千代本人の意思を確かめ、 帰るか残るか決めさせるという仙千代の父親との約束や、 竹丸が同席している制約がないのなら、 このように堅苦しく語るのではなく、 それこそ、膝の上にでも座らせ、髪を撫で、 間近で見詰めながら慰め、甘い言葉をもっと囁いてやりたかった。  「それで、だ」  信長が空気を変えるように明るく言った。  「仙千代には褒美をとらそうと思う。何が良いか」  褒美の意味を解すことが出来ないという顔の仙千代だった。  相変わらず竹丸は涼し気な佇まいで顔色を変えないでいる。 竹丸のこの性根は使えると、このような時、信長はいつも思う。 いくら秘しても隠しようのない生来の賢明さから、 どうしてもいくらか冷ややかな印象を与えはするが、 この年齢で、感情を相手に読み取らせないこの「技」は、 いったい何処で会得したかと感嘆すらする。 信長の求める側近像として、竹丸はある意味、 最初から出来上がった「作品」だった。  「褒美をいただく理由がございませぬ」  このような場合の主君と臣下のやり取りに当然、未だ、 まったく不慣れな仙千代が、 事と次第を読み取ることができず、真からの声を発した。      
/173ページ

最初のコメントを投稿しよう!