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「世継ではなかったのですか!」
「余は拾丸君のことを『世継』とは誰にも言っとらんぞ。女中連中が勘違いをしただけではないか」
「拾丸君は上様のことを『父上 父上』と、それに由喜子様のことも『母上 母上』と」
「あれは『猿芝居』だ。余には嫁も子もおらぬでな、大奥にいる間につきあっていただけだ。お遊戯びのようなものだ」
莫迦にされているのだろうか。瑠璃は将軍に平手打ちを食らわせてやろうと考えており、手がピクピクと動いていた。瑠璃は目一杯の訝しげな目で将軍を睨みつける。
「だがな、単なるお遊戯びでこんな莫迦なことをしていたのではないのだぞ。泰明院もあやつを『孫』と思うておるからな。小姓の身でありながら、監視役としても使っていたのだぞ」
「監視……」
「ばあばばあばと常に傍らにおったのだぞ? 孫には甘いようでお手玉や双六などをしていたのだぞ?」
偽りの孫とも知らずに…… 瑠璃は僅かであるが泰明院に同情の念を覚えてしまった。
「御次の間で飼っておる狆の撥だったか? 拾丸君はあいつとも仲が良うてな、よく遊んでいるそうだ。そなたが大奥に入った初日に泰明院の部屋に撥を連れてきたのは拾丸君だ。巻き込んで悪かったな」
あの時の由喜子の態度も見ず知らずの婆さんで、憎い大奥の実質的な最高権力者であることを考えると妥当である。それが泰明院の逆鱗に触れたと考えると、殺されたのは運が悪かったとしか言いようがない。瑠璃は由喜子の菩提樹に向かって手を合掌せ、冥福を願った。
「本当はこの御清間に位牌を置いてやりたいのだが、余が亡くなった後、隣に置くと言う形でしかしてやれんのだ。すまぬな、本当に」
将軍は目に涙を浮かべていた。女には興味はないとは言っていたが「親友」と言う形で由喜子のことを大事に想っていたのだろう。瑠璃は将軍の涙を見てこう考えるのだった。
「誰が…… 殺したと言うのだ……」と、涙を拭いながら将軍は言う。瑠璃は「わかりきったことを…… 泰明院に決まっているじゃないか」と心の中で思ったつもりだったが、声に出てしまった。
「確かにそう考えた。それは違うのだ。由喜子が殺された朝から遡った夜までずっと拾丸君は泰明院と一緒であった。この時点で泰明院は動けぬのだ。誰かに殺らせたにせよ、下手人は養老院・最奥にまで指示を仰ぎに来るはずだ、ところが拾丸君は『誰もばあばの元へは来とらん』と言う」
その瞬間、瑠璃の胸に嫌な風が吹き抜けた。それを胸に秘めて不安に襲われたところで将軍は御清間の襖を開いた。日の光が部屋に差し込むと同時に将軍は口を押さえその場で咳き込んだ。風邪の咳とも、労咳の咳とも違う腹の中から絞り出すような苦しい咳であった。
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