61人が本棚に入れています
本棚に追加
大奥にて正室である御台所に挨拶をして午前中の将軍の仕事は終わりである。この後は昼食までは自由時間、そのまま大奥にて「お気に入り」の女中を漁るなり、趣味の絵画や剣術に没頭するなり、何をしても構わない。将軍はたまたま暇を持て余しており大奥の中庭前にて御台所の渚子と共に大奥内の廊下を歩いての散歩に興じていた。
本日は雲一つない晴天、将軍はその蒼穹を見上げながら言った。
「いい空よの」
その将軍の言の葉に御台所の渚子(なぎさこ)が答える。
「はい、美しゅうございます」
「うむ、このような空を見ておると徳丸のことを思い出す。二人で鞠を投げあっておったものだ」
徳丸とは、将軍と渚子との間に生まれた子である。数え歳で四歳になった頃、病でその身を散らしてしまった。渚子は徳丸が床の中で息を切らしながら「ははうえ…… ははうえ……」と自らを呼ぶ姿を思い出し涙を流してしまった。
そこに一人の老女が割り込んできた、真白い頭巾を被り、紫衣を纏ったその女性は泰明院(たいめいいん)、将軍の生母で、現時点での大奥の最高権力者である。
「また、徳丸のことを考えておったのか。ああ女々しや、実に女々しや」と、泰明院は嫌味たらしく渚子に向かって吐き捨てた。
「母上、そのようなことを仰るのはおやめ下さいと何度も」と、将軍が泰明院を諌めるが、彼女はその言の葉を聞かずに渚子を詰り続ける。
「大体、御台所殿は顔は良いがお体が弱いと耳に挟んでおる。徳丸を生んだ後、十日以上も寝込んだと聞き及ぶ、その体の弱さが徳丸を早く死に追いやったのではないのかえ?」
さすがに生みの母と言えど、妻に対する冒涜は許されたものではない。将軍の怒りは一瞬で頂点に達した。
「母上! いい加減になさいませ!」
泰明院は引かない。実の息子はこの国の最高権力者である将軍なのだが、息子には変わりないために完全に下に見ている。
「黙らしや! 徳丸が早うに鬼籍に名を刻むことになったのは、このか弱き娘の腹が悪いのじゃて!」と、泰明院が怒声を上げた瞬間、将軍は身を竦めてしまった。渚子も言いたいことはあるのだが、跡継ぎである男子がいない以上は何も言うことが出来ない。
大奥の役目は唯一つ、将軍家の胤を絶やさないこと。それだけである。その役目を果たせなければ大奥の中ではどれだけ地位が高かろうと、その地位はお飾りに過ぎない。
泰明院の考えることは「将軍家の胤を絶やさないこと」一つのみ、一番初めの妻と言うだけで御台所の地位におり、役目を果たさない渚子に辛く当たるようになっていた。
「渚子殿、上様に嫁がれて十年。お世継ぎの生まれる気配はありませぬな。体が弱く天に帰った男子一人ではないか。役目も果たさずに御台所とは不愉快よの。役目も果たさずに傅かれ食う飯は美味しいのかえ?」
最初のコメントを投稿しよう!