おかあさん。

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 と、ここまでやったところでようやく僕は、自分が途中の呪文を間違えていたかもしれないことに気づいた。お母さんの名前を言うのをすっかり忘れていた。本番では間違えないようにしなければ、と僕は慌ててメモを取りだして呪文を書き直す。  と、その時ふともう一つのことを思い出した。そういえば、動作確認のため鏡の前で呪文をかけてしまったが、ひょっとしたらそれはまずかったりするのだろうか。鏡の中の自分に、催眠術がかかってしまったなんてことは。 ――い、いやいやまさか!僕に対して“僕のお小遣い増やして!”なんておまじないかけたって、意味なんかないんだし……。  この時。僕は友人達と交わした会話のうち半分以上が忘却の彼方であったということを付け加えておく。後で思い出したが、時既に遅しだった。自分に催眠術をかけようとした場合何が起きるか。それを、ほぼ完全に忘れていたのである。 「ただいまー」 「あ」  特に不思議なことが起きた様子もない。洗面所にいた僕は、ガチャリという音と共にお母さんの声を聴いた。彼女が帰ってきたのだ。お帰り、と僕は言おうとして。  手の中からするり、とメモとペンが落ちる感触を知った。 「……え?」  突然。目の前の景色が、ぐにゃりと歪むような感触。僕は急激に降って湧いた“違和感”と“恐怖”に、呆然とした。何が自分の身に起きているのか、それを理解するまでしばし時間を要したのである。 「ただいまー。あれ?リキくんいないのー?」  母の声がする。そんなまさか。こんなはずがない。僕は顔中から血の気が引く思いがしながら、洗面所の外に飛び出した。廊下で、自分の姿をきょろきょろと探している母と遭遇する。 「あら、いるんじゃない。ただいまー」  彼女はいつも通り振り返った。そう、いつも通りの笑顔だ。いつも通りの――。 「なんで」  僕は後退りしながら、叫んだのである。 「おばさん、だれ……!?」  僕はそのまま、絶叫して――その家を飛び出したのだった。
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