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【序】
絹田はもはや痛みから解放されていた。
肉が削がれた断面から体液が流れ出るとともに、傷そのものが絹田の身体から遊離していく。世界のうちに存在を確たらしめていた肉体が喪われ、目玉だけが空間に投げ出されている感覚。閉じる力すら失ったその目は光を取り込む働きを失わず、脳内の分泌物で酩酊した絹田の精神に外界の様子を射影し続ける。
おぼろげな視線で唯一確かに捉えていたものは、覆いかぶさるように立つ大男の陰気な姿だった。
――なぜ泣いているのだろう。
大男は情けなく八の字に歪めた眉の下、深い眼窩の奥からぼろぼろと大粒の涙を流している。絹田の血に染まった丸太のような太い右腕を持ち上げ、親指の関節に噛み付いている。
絹田がこの男への敵意を失ったのはいつだったろう。
死に向かって落下し始めた今となっては、事の経緯などどうでもいいことだった。
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