【四】

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【四】

 死体が見つかってから三ヶ月が経ち、社会はもはや例の事件のことを忘れていた。  (きぬ)()はそうではない。だが終わったはずの事件を調べ続け、怪訝な目で見られることに辟易しつつあったのは確かだった。  ある日の陽の暮れかけた時分、絹田はいくどとなく訪れた焼死体の遺棄現場にまた足を運んでいた。  今更直接的な手がかりなど見つかるはずがないのは分かっている。だがあの場所は、闇深くに潜む殺人犯がねじろから出て、人の世に姿を現した現場に他ならない。ここを選んだのには何か理由があるのかも。場所を選んだ理由が分かれば、犯行の意図も推測できるかも。  我ながら短絡的だと半ば呆れながらも、絹田はあの高架下を訪れずにいられない。  胡乱な言葉ではあるが、いわゆる『刑事の勘』なのだ。現場に来れば目的の人物に遭遇できると、都合のいい夢想をしているだけ。  夢想と切り捨てる理性的な思考は、必ずしも命を救うものではない。  例の空き地に向かって舗道を歩く絹田の背後から、不意に、男の声がかけられた。 「たいへん恐れ入りますが――」  異様に陰鬱な声音に、絹田の脳裏にはとっさに「振り向きたくない」という思いがよぎる。聞こえなかったことにしたい、知らんぷりをして走り去ってしまいたい――そう願ってしまうまでにじっとりと暗く、不快感を掻き立てる声だった。  だが、その言葉は見知らぬ人に対して慇懃に呼びかけているものと思える。続く声がない以上、絹田に話しかけているに違いない。だとしたら警察官として無視することなどできやしない。  絹田は内心の葛藤を表さぬように振り向き、声の主を確かめる。  背中を丸めた大男がそこにいた。  絹田との距離はせいぜい三歩ほど。前かがみと言えるほどの猫背にもかかわらず、平均的な身長の絹田よりも頭一つは背が高い。丸められた肩は広く、厚みのあるどっしりとした体が、オレンジ色の夕陽を背中に受けて巨木のように突っ立っている。  ただの市民とは思えない。  絹田は反射的に、自分が警察官であることを悟られまいとした。 「私ですか?」  当たり障りなく返して反応をうかがいつつ、視線を流して大男の風体を観察する。  作業着らしき白っぽい上下姿で、腰に巻いた太いベルトから体の両脇に一つずつこげ茶の皮でできたポーチを提げている。凶器が入っている可能性は充分にあると判じた。いや、大男の丸太のような腕や脚そのものが充分に武器と呼べるものだ。  男の顔は、離れた位置にいればほとんど見えなかったろう。逆光な上にひどくうつむいた姿勢を取っており、とさかめいた髪までがお辞儀をするようにバックからフロントへ流れ、額に被さって陰を作っている。  だがごく数歩の距離に立った絹田は、背の高いその男から覆いかぶさられるような格好になっているせいで、顔をのぞきこむことができる。  三十代半ばくらいだろうか、彫の深い顔立ちの男だった。常識外れの巨体からして、日本人ではないのかもしれない。困り果てていると言うように太い眉を八の字にして、じっと絹田を見下ろしていた。  異様なまでに哀れを誘う目。絹田は一瞬警戒を忘れ、彼がただ助けを求めてきた一市民に違いないと信じ込んでしまっていた。  まるでその隙を狙ったかのように、大男が言った。 「絹田様でいらっしゃいますね」  名前を知られている――?  絹田は怯んだことを自覚し、瞬時に後悔した。  それが最後だった。
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