【六】

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【六】

 左の腿に激痛が走る。湾曲した銀色の包丁はいとも簡単に皮膚と筋肉を切り裂き、豆腐でもすくうようにあっさりと肉を削ぎ取っていく。  硬い轡でいましめられた顎の内から、(きぬ)()は苦痛の呻きを発する。全身をこわばらせ、のたうちまわりたくなるほどの痛み。だが四肢はまったく動かない。関節を押さえられているからなのか、あるいは麻痺させられているのか。確実なのはおそるべき痛みの感覚だけ。  いまや明確に危害を加えられ、与えられた鋭い痛みによって絹田の精神には激しい闘争心が沸き起こっていた。目の前の男に対する憎しみ。人倫にもとる殺人鬼への嫌悪。報いを与えねばならぬという使命感。  内心でどれほど憤ったところで、できることは何一つなかった。  大男は刃物を丁寧に動かして、切り分けた大きな肉の塊を絹田の視界の外に置いた。  血の付いた得物を手にしたまま動きを止め、あの上目遣いで絹田の表情をうかがう。  ――俺が苦しむのを見て楽しんでいるんだ。舐めやがって!  絹田の脳は沸騰したように激昂し、そして――急速に冷静さを取り戻した。感情が溢決したことで、むしろ理性的な水準に落ち着いたらしい。  刑事である絹田には強い意志があった。醜悪な殺人者に命を奪われるとしても、信念だけは失うまい。もとより肉体的な苦痛など覚悟の上の生業ではないか。絹田には事件の真相を究明し、本当の殺人者を断罪するという目的があった。  だからせめて、唯一自由な目を使って相手を観察するべきだと考えた。  それこそが狂気を招き入れる行為だと気づかなかった。  異常な男を覗き込み、その奇怪な意図を知ろうと探るほど、男の精神にはらんだ歪みが絹田の堅固たる理性を内側から侵していくのだと。  八の字にした眉の下から見つめてくる大男を、絹田はまっすぐに見返す。  すると大男はぎょっとしたように目を逸らし、包丁を両手でむやみに弄び始める。時折右手を口元に持ちあげ、親指の関節を噛むような仕草をする。  大男のおどおどとした態度から感じる違和感を、絹田は取り戻した理性を使って考察していた。  この男が二人の殺人に関わっていることは違いない。犠牲者の身動きを封じ、特徴的な刃物を使い、並外れた腕力によって肉を削ぎ取ったのだ。同じ手口だと考える他はない。  では目的は? 絹田の想像していたように人肉を採取するつもりなのだろうか?  絹田の腿肉を切り取った大男の丁寧な手つきを考えれば、納得のいく説ではある。だが絹田に慇懃な口調で話しかけ、様子をうかがい、視線に対して反応を示す様子からすると、単なる獲物としか思っていないようには考えにくい。  ――分からない。
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