【七】

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【七】

「――き、(きぬ)()(けい)()様」  不意に大男が言葉を発した。それが自分のフルネームだと気づき、絹田はいっそう警戒心を強めながら耳を傾ける。 「西暦一九八六年、四月三十日生まれの満三十五歳でいらっしゃいます。現在は東京都文京区本駒込三丁目十二番二号、ハイム境北の二〇五号室にお住まいです。警視庁刑事部捜査第一課殺人犯捜査第四係に所属、階級は警部補でいらっしゃいます。千葉県立野田高等学校の卒業後、市役所職員として六十ヶ月お勤めになりましたが、退職して警察学校に入学されました。卒業後、五十三ヶ月の交番勤務を経て刑事課に任用され、わ――」  大男は突如言葉を途切れさせた。喉が詰まったかのように口だけを動かしたかと思うと、また手を持ち上げ親指の関節に歯を立てる。  絹田の方は、生年月日に住所、さらには経歴までも異様な正確さで言い当てられ、大男に対する得体の知れない印象を再び募らせていた。  この男に会った記憶はない。巨体を持つ不気味な男を忘れるとも思えない。この男は一方的に絹田を知り、身辺情報を調べ上げ、こうして拉致するに至った。  なぜ――?  冷静だった絹田の理性がまたも混乱し始める。  この大男は何が目的なのだ? 肉が欲しいのか、拷問がしたいのか、絹田を始末したいのか。安易に思いつく動機はどれもしっくりこない。  暴力的な行為を平然と行ったかと思えば、口を開けば異常なほどに慇懃な物言いをし、自信のなさそうなおどおどした仕草を繰り返す。  行為のすべてがちぐはぐだ。  常識から明らかに逸脱した存在を前に、絹田の内心に恐怖が頭をもたげ出す。  分からない。未知は恐れの源だ。底の見えぬ暗闇から飛び出してくるものは、観察者の想像できる最悪の存在すら超越しうる。  大男は右手の親指に歯を立てながら、どもり気味に言葉を次いだ。 「ぞ、存じております、あなたのことは――き、絹田、様。わ、わたくしは……ただ、あ……」  唐突に言葉を詰まらせる。くしゃりと歪められた顔は、子供が泣き出す直前のようだ。  不可解に取り乱した大男は、左手に提げた包丁をおもむろに取り上げる。 「……も、申し訳……ありません……」  誰に向けてか謝罪の言葉を口にしたかと思うと、手にした刃物を絹田の腹の真ん中に差し込んだ。
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