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きっと、あなたは
本日の時間割と担当教諭などを書き終えたまま、手が止まっている。私は窓際の席で日誌を見つめたまま、吐息した。
「所感……」
もうじき卒業だというのに、まだこの項目に記入するときには悩んでしまう。
左を向いてみるも、三階の窓からは遠くの山肌しか見えない。
(あ、紅葉、まだ残ってる)
暦の上では冬になったらしい。とはいえ、日中まだ気温の高い日もあり、上着を脱ぐことも多い。
グラウンドから聞こえてくる声は、言葉は判別できないけど、掛け声とか指示とかで、なんとなく心地良い。閑散とした教室内はちょっとだけ寂しいけど、この世界にひとりじゃないって感じられるのがいいのかもしれない。
それはともかく、この黒表紙の冊子を提出しなければ帰れない。特に急いでいるわけじゃないけど、日が落ちる前に家に着きたいから、門が閉まる時刻じゃ遅いのだ。
唸りながら、もう一度ページに目を落とす。
「あ、そうだ」
ふと思い付いて、ようやくシャーペンを動かし始めると、カラリとドアが開いて副担任の小西先生が入って来た。今日は担任が休みなので、ショートホームルームの時には居たんだけど、教務員室に戻ってからまた来たらしい。
物理の教師だから、生物選択の私は関わりがないんだよね。なかなかイケメンの細マッチョなので、男女共に生徒に人気があるけど。
一年生の時には全科目必修だったけど、物理は年配の教師が担当だった。こうして今年副担任になって顔を見る機会が増えたものの、特に関わることもなく。
「石井ー、日誌まだか?」
シャツとスラックスの上に白衣を羽織った先生が、ペタペタとサンダルの音をさせて近付いてくる。
「見ての通りです。今しばらくお待ちを」
左の手のひらを向けて、あいや待たれよのポーズをしてからカリカリとシャーペンを動かしていると、クスクス笑いながら先生は窓辺にもたれた。
日誌を持参するのが遅すぎるから、催促に来たのか。それは申し訳ないことをした。
「赤沢はどうした」
「後輩に指導を頼まれたとかで、部活してると思います」
「あー、そりゃまたお気の毒に」
「まあ、その分頑張って黒板消したりしてくれたので、問題ないです」
「そっか」
相方が居ない理由を説明すると、それきり先生は黙って窓の外を眺めているようだ。
少しだけ居心地悪さを感じながらも、先生の声はなかなか好みだなあなんて思いながらペンを進めていく。
一つだけ開けたままの窓を閉めたら終わりだな、と確認するように顔を上げて教室内を見回すと、先生と目が合った。
「書けたか?」
「はい。後は窓の施錠をしたら終わりです」
「じゃあ、その間に見るよ」
差し出された手のひらに、お願いしますと日誌を載せる。
「お疲れさん」
ほい、と受け取った時の台詞に既視感を覚えながら席を立った。
(前にも聞いたことある?)
遠い場所から順にクレセント錠を確認して、また自分の席に戻ってくる。
先生は赤ペンで書き込みながら、僅かに首を傾げていた。ちょっと不思議そうな表情に思える。それから、最後まで読み終えたのか、失笑した。
「おまっ、これ」
クスクスと笑い続ける先生に、ことさら畏まった様子で私は首肯する。
締めの言葉は『小西先生、イケボですね』だ。喜んでくれて何より。
「お褒めに与り光栄だよ」
「どういたしまして」
礼を言われたので返したら、また笑いが深まっている。何故だ。
「あー、おかしい。石井がこんな面白いやつだったなんて」
「初対面ではないですが、雑談する機会もありませんでしたし」
「確かにそうだな」
まだ笑みの残る口元のまま、さらさらと何か記入している。サイン以外にも何か書いてくれているのかな?
担任の感想欄もあるし。
覗こうとして隣に並ぶ。反対からだと読みにくいので仕方ない。別にイケメンの傍に寄りたいとかそんな意図はないですよ、と誰にともなく言い訳してみる。
(んーと、なになに……僕も日曜に野良スクで勝ちましたよ……)
「て、先生もゲームするんですね」
意外だという思いが声に出ていたのか、先生はひょいと肩を竦めた。
「そりゃあね、まだ二十代ですしね」
問題ある? という目線で見下ろされて、私も肩を竦めてみせる。身長が高いから、あんまり近くからだと話す時に首が疲れそう。
「石井こそ、受験生が呑気にゲームしてていいのか?」
「息抜き程度ですよ。一日一時間ほど。それに私、公務員試験受かってますし。一応大学も受験しますけどね」
進学校なので、学校の進学率のためだかなんだかで全員何処かを受けねばならないのだ。解せぬ。
まあ、いい経験にはなるかなと、そんなに嫌なわけじゃあないんだけど。
他の生徒がまだ本腰入れて受験勉強をしていない時期に、めっちゃ勉強してたんだから許して欲しいよ。公務員試験は適性検査とか授業とは関係ない特殊な勉強も必要なんだからね!
ほー、と先生は感心したような声を上げた。
「じゃあ、春には社会人か」
「実感湧かないけど、多分」
「そっかー。まあ、おめでとさん」
うんうんと頷いて、パタンと閉じた日誌を脇に挟むと、先生はドアに向かい始める。
私も荷物を持って一緒に出た。
カチャリと施錠して白衣のポケットにしまうのを何となく見守り、そのまま並んで廊下を歩く。
もう少し、話していたい気がした。
――お疲れさま で途切れたあの声が脳内でリフレインしている。
(まさか。まさかだよね)
アジアサーバーだと変なフレンドリクエストがきたりするので、ボイスチャットはオフにしている。この間のはヨーロッパサーバーに繋いで、拙い英語を駆使してチャットしていた。
あの人も、発音は滑らかだったけどほか二人の雑談には参加していなくて、必要最低限だけ喋っていたから、そんなに憶えていないんだよね。
だけど、試合終了後のあの言葉――
(声、凄く似てる気がする)
もう一度よく考えて、先生の横顔を見上げる。
「あのさ」
「あのですね」
ハモってしまった。
二人同時に足を止めて、マジマジと見つめ合う。
先生の瞳も、迷うように揺れている。
お先にどうぞと譲ろうかとも一瞬過ぎったけど、先制パンチ。
「フレリク送ってもいいですか?」
「お、おう」
目を見張って頷く様子が、何処か子供っぽくて可愛い。
じゃあ、と左手の甲を上にして差し出すと、先生は不思議そうに首を傾げた。
やっぱりちょっと可愛い。一回り年上の人に失礼ではあるけれども。
思わず笑み溢れてしまう。
「ペンで、ここに書いてください」
「あ、そういう」
女子のやることじゃないだろと言いながらも、私の手を左手で支えるようにしてペンでゆっくりと書いていく。
もしも、私の予感が合っているなら。
いや、かなりの高確率で。
その名前は、閃かせるという意味の英単語であるはずだ――
了
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