雨音の世界

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「××君?」  驚いて××君の顔を見ると、同じく驚いた表情で××君が私を凝視していた。眼を大きく開き、眼光は鋭く私だけを捉える。  そして、 「――あるんだよ」 「……ごめん。もう一回言って?」  そして××君は、 「あの部屋のどこに自由があるんだよ」 「………………え?」  ××くんは今まで見せた事もない冷静な顔で、そして、何処までも冷たく威圧するような声で放った。 「××さんも本当は解ってるはずだ。あそこに自由なんてない」 「そんなの……そんなの、私だって――」  私だって、とっくに気付いてる。  クラスに復帰する為の下準備? 心の安定? コミュニケーション能力の向上を目的とする特別支援学級? ふざけないでよ。  其処にあるのは自由なんかじゃなくて、自由に見せかけた不自由しかありふれていない事くらい。とてつもなく脆い牢獄に閉じ込めて、私達の自尊心と向上心を優しげに腐らせるだけじゃない。  でも、  私は、その牢獄でさえも―― 「僕は『すみっこ』を出ていくよ」  一瞬、何も聴こえなくなった。本当に、一瞬。その瞬間、雨が更に酷く打ち付ける。傘を差しているにしろいないにしろ、傘の存在意義など全くなくなる位の量が降り注ぐ。  しばらくの間が空いたあと、××君は私の耳に口を近付けて、 「――――――」  何かを告げた。限りなく××君との距離は近いはずなのに、微かな息継ぎさえ届くのに、その言葉はズブズブと降る雨に掻き消され、鼓膜には伝わらなかった。  彼の言葉は雨に負けた。  或いは、  私が彼の言葉を拒絶したのかもしれない。      *     *  雨の中、私は一年前もの事を思い出す。  ××君と不安や弱さをバラ撒いた次の日、先生から××君が青少年センターに移ったという話を聞いた。二、三か月前から先生に相談をしていたらしく、少なくとも××君はその頃から『すみっこ』に自由などなく、そして不自由だと感じていたんだろう。いや、多分ずっとずっと前からだと思う。  青少年センターでの活動は『すみっこ』と大抵同じだけど、青少年センターでは、登校、下校時間の自由ではあれ、中学校と同じくちゃんと時間割が決まっており、先生のいる授業なのだそうだ。  体育の授業もあり、地域の清掃や老人ホームでの奉仕ボランティアなど、社会との繋がりも大事にしている。本当に此処は、見せかけの自由だらけな『すみっこ』とは違う。此処で残りの学校生活を過ごしていれば、今よりはだいぶマシな生き方に戻れるだろう。  だけど、『すみっこ』に充満する自由な不自由は、私みたいな人を見たり知ろうとしない人見知りには、意外と安心出来る場所なのである。だから、青少年センターのような不自由な自由が怖かったりもする。  自由な不自由に安心する私と、不自由な自由を求める××君。果たしてどちらが正しいのだろうか? どちらが間違っているのだろうか? 或いはどちらも正しくて、どちらも間違っているのかもしれない。正解も不正解もない見つからない中、私は進まないままで、進めないままで、いつまでも此処に立ち止まっている。  ある日の事、先生から××君が書いた手紙を渡された。 「××さんへ。あの時は最後にあんな自分勝手な事を言ってごめん。でもあれは僕の本心だったから。  今回××さんに手紙を送った理由は二つあります。一つはあの時の事を謝りたかった事。もう一つは、××さんも青少年センターに来ないかって事。職員さんに話してみたら、『休日なら誰もいないのでゆっくり見学出来るよ』と言ってくれたので、××さんが良かったら今週の日曜十四時、青少年センター前で待っています。  難しい事を言ってるのは、勝手な事を言ってるのは解かってる。だけど、僕は××さんを救いたいです。                        ××より」  あの時。というのは、雨の日に言い争った時の事だろう。最後の言葉を拾えなかったのに、それを謝られても心が淀んでしまうだけだった。それに、私を救いたい? 本当に勝手な事を言っている。それじゃまるで××君が私より優位な場所にいて、私が××君より劣ってるみたいじゃない。鳥籠を抜け出しただけで、まだ小さな世界に戻れていないのに。  ふと空を見上げると、大粒の雨が顔中を叩く。  昔から傘が大嫌いだった。  強い風で飛ばされそうな傘を必死に守っていると、何故だか傘以外のものが飛ばされそうな気がしてしまうから。それは私の弱い心かも知れないし、僅かながらに築き上げた世界かも知れない。いずれにせよ、何かが奪われる感覚が恐かった。  例え、凍てつくような春時雨が降ろうが、貫くほどの篠突く雨が降ろうが、私が傘を差す事なんて滅多にない。 「……さっむ」  顔にかかる雨を拭い、乱れた髪を整えていると、汚い水飛沫をあげなから走る車や、傘を差して歩いている人とすれ違う。その誰もがみすぼらしい今の私を一瞥して、まるで可哀想とでも言わんばかりの顔をする。  でも、それでいい。それがいい。ズブ濡れで可哀想? 勝手に勘違いしとけばいいじゃない。私はそれでも前へ進む。あなた達の想像を遥かに超えるような未来に行こうと、決意しようとしている。  だって私は――、  ようやく『すみっこ』から、あの牢獄から抜け出す覚悟を決めたのだ。私自身との長い格闘の末、私は此処に来た。  新しい世界が待つ未来へと、生まれ変わった××君がいる青少年センターへと。私は、私の意志で此処に立っている。
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