終末思想

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 ……なんて、どうでもいい昔話を思い出した。  声が出ない。身体に力が入らない。……まだ夕暮れ時だった。何時間も、何日も叫んだのに。そのような気になっていたのに。 「ねぇ」  ふと、あまりにも聞き慣れた声が後ろから発せられる。考えずとも、確かめずとも確信するその声に僕は安堵しながら振り向くと、そこには案の定彼女がいた。とても、至極当たり前のように。 「もういいんじゃないの」 「み、ず。…………うぇ」  違う。そんな事をよりも大事な事を言わないといけないハズなのに。叫んだせいで困憊した頭じゃよく考えられなくなっていた。疲弊し切った身体で彼女を見上げ、枯れた声で彼女に水をせがむ。 「はい」と、多分どこからか盗んできたであろう水をぞんざいに僕へと投げ付ける。僕はキャップを外し勢い良く水を喉に流し込む。 「……大丈夫だった?」「……何が?」「何がって……」  彼女は言ってる意味が解らないと不思議そうな顔をする。 「待ち合わせ時間に来ないから、散歩してたの」「散歩? こんなときに?」「こんなときだから」  終末の景色を見ておきたいの。そう言わんばかりの口調だった。 「これ……君がやったの?」 「私にこんな事が出来ると思う?」 「思うよ。この世界は君の終末思想と同じだから」 「……同じ?」  悪意が滲んだ彼女の声が、つまらなさそうな彼女の顔が、次第に引き攣っていくのがスローモーションで解かった。 「あのさ、あのさぁ、違うでしょ? 言ったよね? 私、言ったよね? あの時、私は何て言ったんだっけ? ねぇ、何だっけ?」 「……ごめん」  何が、ごめんだ。いつも僕らはそうやって都合が悪くなると逃げ出しているだけじゃないか。責められて、迫られて、互いのテリトリーに踏み込まないギリギリで付き合っているだけじゃないか。 「…………ッ!」  その時、強く冷たい風が吹いて、何やら異臭がした。腐敗したような、焦げたような、決して好まない臭い。 「行ってみる?」 「……うん」  その臭いを辿り、歩く指針とする。僅かな差異でも縋らないと、微かな変化でも求めないと、終わりの世界では気が狂ってしまう。一歩、また一歩と近付いて臭いの原因へと辿り着く。  其処には、見るも無残に大型トラックがパチンコ屋に突っ込んでいた。店の中では台のコード類が剥き出しになり、大量のパチンコ玉が散乱して、トラックからは火が燃え盛っていた。  そして、炎上しているトラックのもっと下。車輪の近く。  人間だった。  白いコートに赤いチェックのマフラー。それだけでも分かってるのに。もっとそれに近寄って確かめる。僕の彼女だった人の形を。彼女の両手は不自然に胸の前で組まれていて、身体の右横には花束が置かれていた。じゃあ、じゃあ僕に隣にいるこの人は……、 「覚えてる? 忘れてるよね」 「お前、誰だ?」 「忘れちゃいけない事は、いつだって忘れてる事なのに」  そう言って、彼女だと思っていた人間は悲しく俯いて、人間だと  思っていた彼女の冷たい頬に、そっと自分の頬を寄せた。  一瞬。ほんの一瞬、その光景がとても綺麗に見えてしまった。  僕の彼女も誰かの為に涙を流せればいいのに。 「クレープ、食べたかったね」  その人は視線を死体から別の方向へ向ける。  そこには彼女と行くはずだったクレープ屋があった。  そう言えば今日、本当は彼女とクレープを食べに行く予定になっていたのに。彼女が死んでしまった。残念だと、少しだけ思う。 「まだ思い出せないの?」 「何が?」 「あなたは此処で死んでない」  ……当たり前だよ。此処で死んだのなら、この場所に死体があるはずだ。それがないから、……。……。……。  それは、つまり、 「僕は死んでない?」 「えぇ」  訂正。 「此処では死んでいない?」  ゆっくり、彼女は頷いた。  じゃあ。じゃあ、 「僕は何処で死んだんだ?」  事故に遭った彼女を置いて、僕は何処に逃げたんだ? 「随分あっさり自分が死んだって事を信じるのね」 「今は、だよ。理解したつもりにならないと気が狂うから」  だって、まだ何も解決していない。この世界は何なのか。彼女は誰なのか。僕の死体は何処にあるのか。…………え? 待ってよ。ちょっと待って。もし仮に僕が死んだとして、その死体があったとして、そしたら僕は、僕は何だ? 僕は、……誰だ? 「ある仮説を立てたの」 「仮説?」 「仮説。この世界が何なのか。あなたの死体が何処にあるのか。私は一体誰なのか」  付いてきて。そう言って彼女は応えを返す間もなく歩き始めた。僕も仕方なく歩き始める。流されるままに、惰性のままに。
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