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ふきだまりの唄
『 』
彼女が私に何かを言った。
今となっては確かめる事などできないけど。
その時の彼女の目はとても冷たくて、とても哀しくて。
ごめんねと言えば何でも許されるのか。
『友達は質ですか? 量ですか?』
うんざりだよ。どうせ答えは『質』で、理由は『友達が多くても上辺だけの付き合いなら意味がないから』。それは恐ろしく正解。だけど不正解。『質』の裏を返せば人を選ぶという事。自分にとって利益のない人間だと思えばすぐに切り捨てるという事。
もちろんそれもいい。それでもいい。あれも正解。これも正解。どれも正解。なにも正解は一つに限った事じゃない。自分が正解だと思えば正解なんだから、たとえそれが間違っていたとしても。
* *
教室に差し込む斜陽がやけに眩しい。
いつもの日常を繰り返す教室が、今だけは素敵に思えた。
放課後の静まり返った世界には、水槽の音だけが響いている。
コポコポ、コポコポ、景色が揺らめいて。
ふと、ある方向へと目をやった。
窓際の後ろから三番目。そこの机の上には、綺麗なアセロラの花が飾られた花瓶が置いてある。
私の親友だった女の子。親友だと思っていた女の子。
大切になりえなかった人の席。
無意識に花瓶へと手を伸ばした。そのとき、
「あれー? ××じゃん。何やってんのー?」
同級生だった。
「……別に。花が枯れそうだったから」
「あっそう」
言って、自分の席へと向かった。教室に忘れ物をしたらしい。
「ねぇ」「んー?」「あなたは質? 量?」「……何が?」「友達は質か量か」「あ? それよりあたしの教科書知らない?」「知らない」
ガサゴソ、ガサゴソ、五月蝿いんだよ。
「私は、……量」
「……だから?」
「質を求めると人は死んじゃうから」
「聞いてないし。意味分かんないし」
同級生は私の話と見つからない教科書で苛立つ。吸い込まれそうな黒髪を掻き毟り、露骨に嫌な顔をする。でも、私は話を続けた。
「量より質を求めるという事はね、一人の人間に対しての負担が増えるという事なの。例えば、誰かに悩みを聞いてもらいたい時、一人にだけ相談してたらその人が辛くなるじゃない。この世界には優しい人が多いから。『あー、この人はこんなに悩んでいるのに私は何にも気付いてあげられなかったんだー』って、偽善が働いちゃうから。でも、量が多かったら色んな人に少しずつ悩みを打ち明けられるでしょ? 私はそうやって打算的に生きてきた」……。……。……。……って、「もういないか」感覚を現実に戻すと、同級生はいつの間にかいなくなっていた。全部一人言で、全部独り言だった。
私は、あんな奴に何を聞いているんだろう。何を言っているんだろう。突然怒りが込み上げて、本音を、事実を、口にする。
「あなたが彼女を殺したくせに」
花瓶の水が汚くなってきたから、水を取り替えようと花瓶を持ち上げる。でも、止めた。左手の力が抜けて、手のひらから花瓶がするりと抜けて、落ちた。割れた。アセロラの色素が染み出して、少し薄い赤色に染まった水が床全体に広がった。うっすらと水面に映る私の顔は、あの時の彼女と似ていて、不謹慎にも笑ってしまう。
……。……。……。……あ、片付けないと。
その場でしゃがみ込み、歪に割れたガラスを手で拾う。
「……ッ!」
左手の人差し指を切った。じわーっと血が滲み出たから、花瓶の水に浸してみると、アセロラとは別の赤色が汚い水に溶ける。それでも何とか欠片を拾い集め、雑巾を取りに教室を出「…………あ」
ドア付近で同級生が壁にもたれかかっていた。
「……何、してんの?」
「……言いたい事があるなら直接言いなさいよ」
「……あなたが殺」「あー、やっぱいいわ。さっき聞いたからー」
あっそ。私ならいくらでも言ってあげるのに。喉が枯れるまで、同級生が壊れるまで。あなたが彼女を殺したあなたが彼女を殺したあなたが彼女を殺したあなたが彼女を殺したあなたが彼女を殺したあなたが彼女を殺したあなたが、…………あなたのせいで死んだ。
「あたしは質」「……え?」「さっきの質問」「あー……」
友達は質か量か? その答え。
「ほら、あたしって友達多いし。でもみんな馬鹿ばっかりなのよねー。底が浅いっつーか? あたしがレベルを低く合わせなきゃなんないから嫌になんの。万能型はいつも損をすんのかってーの」
なんだそれ。思わず両手に持ったガラスの欠片を頭の上から降り注いてやりたいと思った。あなたがあんな事を、彼女にあんな酷い事をして追い詰めたから彼女は、彼女は、
「あなたのせいで彼女は自殺したんだ」
「はぁ? 自殺ならあいつ自身のせいじゃん? 関係ないし。あ、そんな事よりさ、あんた、あたしのグループに入らない? ほら、あんたって質が良さそうだし、友達は量だって言ってたじゃない」
…………は? 何言ってんの? 日本語喋れよ。ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、
「 」
何か、叫んだ。両手に乗せてあった欠片を強く握り締め、投げつけた。血の付いたガラスが、夕景に照らされて切ない弧を描く。声にならなかった。彼女の事を思うと、ただ、ただ、悔しかった。苦しかった。許せなかった。こいつへの憎しみが、彼女を救えなかった自責の念が、私の、心の奥深くへ突き刺さる。ズブズブ、グチャグチャ、血は流れないから、涙は流せないから、……。……。
「あんたさぁ、そんな態度でいいわけ? これはあたしがあげる最後のチャンスなのに。あんた他に友達いんの? この先ずーっと虐められるんだよ? まー、あたしはどうでもいいんだけどねぇ。このままあんたが耐え切れなくなって死んじゃっても。なのにあんたを助けてあげるとか、なーんて優しいあたしなんだろぉ。あ、そーいやさ、そーいやさぁ、あんた、蜘蛛嫌いだったよねぇ?」
おかしくなりそうだった。このまま、このまま、惰性に流されるままに身を任せてしまえば、こいつを殺せるのに。結局、自分の事が一番可愛いから、こいつを壊す事で、他の誰かから人間じゃないように見られるのが怖いんだ。彼女の死より私の生を優先してる時点で、もう人間の皮を被っただけのなりそこないなのに。
『 』
また、彼女が私に何かを言った。
ねぇ、何て言ってるの? 私、どうすればいいの?
こんな時、彼女ならどうしたの? 教えてよ、私、馬鹿だから。
「私は……」「……何?」
私は、彼女を自殺に追い込んだこいつが憎い。揺るぎようもない殺意もあった。でも、このままじゃ、こいつを殺す前に私の心が壊れてしまう。だから、これからする決断は逃避ではなく一時撤退。私の心が正常に戻ったら、また、彼女を助けに行くから、だから、
「あなたのグループに入れてください」
* *
『 』
何度目になるのだろうか。
もう、何と言ったのかなんて知りたくないのに。まるで、一時撤退した私を呪うかのように、あの時の映像が鮮明に繰り返される。
別に、逃げたんじゃない。反撃の機会を伺っているだけだ。同級生のグループに入り、知らない誰かを犠牲にし、私にしてきた事と同じ事をした。いいでしょ? 因果応報なんだから。
「××さん……」
「……はい?」
そこには、私を同級生と一緒になって虐めていた生徒がいた。
泣きそうな顔をして、黒い髪をぐしゃぐしゃにして、今は、……あぁ、確か、同級生に刃向かって虐めの対象へ成り下がったんだっけ。馬鹿な事しないで惰性に流されれば良かったのに。
「ねぇ……助けてよ。私達、友達でしょ……」
私との関係を友達だと言う女は、私の両肩を強く揺さ振る。止めろ。触るな。一緒にいるところを見られたら、私まで虐められる。
「ほら、あなたが虐められてるとき、私はあなたを虐めてないじゃないッ! 何もしてなかったでしょ? だから助けてよッ!」
そうだよ。何もしてなかった。何もしてくれなかった。ただ笑って、群像に紛れて、私を囲って見てるだけだったじゃない。
「…………せ」「……あー?」「離せよ、手。きたな、」息が詰ま
さっきまで両肩にあった女の手が私の首を強く締め付けていた。
「ふざけんじゃねぇよッ! 人がこんなに頼んでのにさぁ! お前もずっとあいつに虐められてきたんじゃねぇかッ! じゃあなんで私の苦しみがわかんねぇんだよ! いいから助けろよあぁ!」
女性でもこんなにも力が放出されるのか。火事場の馬鹿力ってやつ。だけど、こいつはただの馬鹿だ。助けを求めている時は助けてくれなくて、いざ自分が助けて欲しい時はこうやって醜く縋り付いてくる。挙げ句の果てに、救いようのない暴力に身を任せる。
息が、胃液が、視界が、女の長い爪が、もう、限界が……、
「…………ッ!」
私の首から両手が離れ、女は床に背中を強く打ち付けていた。下腹部辺りを苦しそうに押さえ、息を荒くしている。……。……。……。右足が痛い。から、女の事を蹴飛ばしていたんだ。
女の顔が私を見て青褪めていた。
その醜い顔、何処かで見た事あるよ。何処だ。何処だっけ?
あぁ、そうか。私、あの時の彼女と同じ目をしている。冷たくて、哀しくて。やっと彼女が呟いた言葉を思い出した。きっと、私がこれから同級生に吐く言葉も彼女と同じだと思う。私は女の身体を起こし、髪を払い、右の耳に口を近付けた。大丈夫。だから、心配しないで。そんなに震えないで。ねぇ、私があなたを助けなくても、
「誰かが助けてくれるから」
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