雨音の世界

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雨音の世界

 昔から傘が大嫌いだった。  強い風で飛ばされそうな傘を必死に守っていると、何故だか傘以外のものが飛ばされそうな気がしてしまう。それは私の弱い心かも知れないし、僅かながらに築き上げた世界かも知れない。いずれにせよ、何かが奪われる感覚が恐かった。  例え、凍てつくような春時雨が降ろうが、貫くほどの篠突く雨が降ろうが、私が傘を差す事なんて滅多にない。 「……さっむ」  顔にかかる雨を拭い、乱れた髪を整えていると、汚い水飛沫をあげなから走る車や、傘を差して歩いている人とすれ違う。その誰もがみすぼらしい今の私を一瞥して、まるで可哀想とでも言わんばかりの顔をする。  でも、それでいい。それがいい。ズブ濡れで可哀想? 勝手に勘違いしとけばいいじゃない。私はそれでも前へ進む。あなた達の想像を遥かに超えるような未来に行こうと、決意しようとしている。 だって私は――、      *     * 『すみっこ』と呼ばれる部屋ある。  中学校の中に併設されている部屋で、人間関係の欠損した生徒や学校より自宅にいる時間の方が長い生徒、つまり、ひきこもりと呼ばれる生徒が集まる場所で、クラスに復帰する為の下準備、心の安定、コミュニケーション能力の向上を目的とする特別支援学級。二階のすみっこにある部屋だから『すみっこ』。それがいつしかそこに登校している生徒の事を『すみっこ』と呼ぶようになっていた。  私が『すみっこ』に通うようになったのは、一年の五月だった。  見学にと担任の先生に連れられ入った『すみっこ』は、とても自由な気がした。広さは教室と同じくらいだけど、教室にあるような机や椅子は一切なく、代わりにソファーと丸テーブルがあり、本棚には『自分らしさとは?』や『ぼくを探しに』と言った類いの本が沢山あった。  人数は四人だけで、真面目に勉強する人、携帯ゲームに没頭する人、昼間から熟睡する人がいる中、明らかに異質で、あからさまに私へ興味を示している男の子がいた。そして、 「よろしく、××さん」      *     * 「私は学校に行けなくなったんじゃないの。行かなくなっただけ」 「どうして?」 「だって、学校に行く意味も解らないし、授業内容が将来に役立つなんて到底思えないし、クラスメイトは精神年齢の低いガキばかりだし。それに……」 「それに?」 「みんなグループで固まって、登校する時も休み時間も下校する時もずっと一緒なの。それがなんか、羨ましいというか、煩わしいというか、ちょっと憧れてたりするのかなー……なんて」 「そっか」  そうだよ。と、心の中で意味もなく呟いてみる。  ××君は他の人が無関心を決め込む中、何かと私と関わって、とやかく私に構ってきた。正直、ちょっと面倒くさい。それでも、何もかも初めてな状況で、誰かと話をしているというのは少し安心する。一人でただただ毎日を過ごしていると現実味が薄くなり、そのまま世界に融けてしまいそうになるのが煩わしかった。  そうして幾度か話を重ねていく内に、私は××君の事を深く知っていく。××君には五歳上の姉がいる事。トマトが嫌いな事。何度も見る夢の事。初恋の事。それはもう沢山の話を交わしたはずなのに、××君が『すみっこ』へ逃げ込むようになった根源は、一度も語られなかった。向こうから話さないのだから無理に聞く事はしない。その代わり、私が此処に来た理由も喋らなかった。 『すみっこ』での生活はそれなりに有意義だった。自分のペースで勉強し、自分のやりたい事を好きな時間に好きな分だけやれるので、私のような優柔不断にはこれ程までにない自由な空間だった。  気が付けば私は『すみっこ』の誰よりも××君の事を知っていたし、『すみっこ』の誰よりも××君の事を知りたいと思っていた。真面目に勉強する人より、携帯ゲームに没頭する人より、昼間から熟睡する人より、誰よりも。けど、でもそれは、誰もが誰もに興味なんてなかったし、私が××君の事情を知っているからと言って、優越感に浸れるものではないはずなのに、何故か私は××君を知れば知る程に心地良くなっていった。  それは、その感情は、一種の初恋か、或いは、初恋に似た何か。例えば、同族好意や、同情や、もしかしたら憐れみだったのかも知れない。好きとか、嫌いとかじゃなくて、この気持ちに名前を付けるとしたら、やっぱり『心地良い』になる。      *     * 「自由って何だろう」  今日も相変わらず土砂降りの雨だった。それでも心地良い私とは対象的に、最近の××君には初対面のような好奇心と興味が見受けられなかった。連日続きの雨で参っているのかも知れない。 「自由?」 「そう、自由。何を持って自由とするんだろうと思って」 「それは」  それは……何だ? 私達がいる此処は、自由なはずだ。なのに、どうしてもそれを言い淀んでしまう。 「何もしないってのは自由なのかな? 例えば……」  そこまで言って、××君は言い淀む。例えばの先は? ××君の考える自由に、其処に『すみっこ』は、底に私はいるんだろうか?      *     *  もう雨が降り続いて一週間近くが経とうとしている。  私は傘が嫌いなので、中学校から家までズブ濡れになりながら帰ろうとしたら、それを見兼ねた××君がわざわざ同じ傘に入れてくれた。正直、ただでさえ傘が嫌いなのに、更に窮屈になるなんて考えられなかった。  すぐ横にいる××君の顔を盗む見ると、またしても浮かない顔をしていた。一緒の傘に入れてくれたくせに、××君から話題を提供してくれる事はなく、無音の空間が果てしなく流れる。  歩く度、足下の水溜まりが跳ね、不規則に揺れる傘の隙間から雨が滴る。無色の世界。雨音の世界。  ××君の顔は、怒っているようにも、哀しんでいるようにも見えた。口元は今にも何か大事な事を呟くかのように、何度も小さく開いたり閉じたりする。  校門を出てから既に五分近くが過ぎようとしていた。何か話題を提供しなくては、何か興味を惹かせなければ、そんな強迫観念のようなものに襲われて、私は意図も意味もなく言葉にする。 「自由って『すみっこ』みたいな事じゃないかな?」 「え?」 「××君がこの前言ってたじゃん。『自由って何だろう』って。だから、その答えみたいな?」  ××君が急に立ち止まり、その拍子で身体が少し前に出てしまい少し濡れた。今更ちょっとくらい濡れたって何も変わらないけど。
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