〈第七話〉致死量(4)

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〈第七話〉致死量(4)

野次馬達が口々に男へ「死ね」、「させろ」、「舐めろ」、「不能」と叫んでいる。なぜ?そんなことを言われているのか?パンクロックと怒号が剣を交えたように音が割れ、うるさい。 どうやら男は、こんなにダンスが上手いのに皆からあまり敬意を払われていないようだ。男の名…手っ取り早くブルーという名前で呼ぼう。枯れた青い髪色が美しいブルー。よく聞き耳を立てると彼は何かひとり言をブツブツと言っている。笑いながら微かに何か意味のある文章を綴っているようにも見える。何を言っているのか?楽しい歌でも歌っているのか? 垂れたよだれの中から客が投げた花がボタボタと落ちる。落ちたのを見た観客たちが面白がり花を投げ、口にするのが幾度と繰り返される。終わりなくダラけた痰がからみ流れていく恵みの雨のよう。夜空の底に花を次々と咲かせていく。そういえば本当に雨が降ってきた。俺も顔を空に向け雨粒を感じてみる。しばらくこの潮風にあたっていたい。ここに居たい。夢を見ていたい。昼も夜もなくなった時間を取り戻したい。 ブルーに視線を戻すとダンスが佳境に入っているように見えた。腰を深く落として両手、両腕を大きく広げ左右に旋回する。群衆の歓声も最高潮に盛りあがる。流れていく花びらが俺の目尻をかすめていく。触れた気がした。少しだけ身体に触れた気がした。嫌じゃないのは気に入ったからだろう。そういえば、何の花だ?動きが早くて形がよく確認できない。濡れ始めた道に落ちた一つを手にとる。見覚えのある丸い柔らかそうな花びらが唾液と混ざっている。「オエエエッ…」…?ブルーの様子がおかしい。より吐いている。足元もよりフラついてダンスの回転もゆっくりになって、よろつき始め腰を地面へ落としたまま片手をついて支えている。そうこうしている内に道の上で仰向けに寝た姿勢のまま動かなくなった。口々にあーあというような声が聞こえた後に観客がさっと周辺から散っていく。今まで興奮と怒号で歓喜していたように見えたのに、倒れた途端にそそくさとその場から散る。誰も助けもせず、ましてや誰も抱きしめ介抱しようともせず。踊らずは誰にも相手にされない。「虚しいな」。無意識に話しかけていた。「与えられた花(餌)は栄養を使い果たして尽きたんだよ」とも言った。野次馬達へ怒りを感じ始め心の中で捨てゼリフのように吐き捨てた。〈餌を与えられれば美しいダンスを踊り観客へ歓喜と興奮を与えた。しかし踊れなくなったら見捨てられる〉。「汚れた服や体のせいでボロ雑巾のようだ」。今度は再度、口から実際に言葉を発した。青白一筋の光が彼の口元を照らす。頭上を見上げると新月から変わり三日月が闇空へと上がり浮かんでいく。海辺に降り立った強い光の三日月の姿が空へ上がってゆく。「ブルー、死んじゃだめだ…」。 三日月はブルーを見守っているようにも見えた。人じゃなく月。三日月の青白い光のおかげでブルーのボロ雑巾のような汚れは気にならなくなった。小劇場の小さなスポットライトみたいに照らされ爆音も静かに感じるくらい静かになった。「かわいそうに…」。俺はまたつぶやいた。三日月の中で幻想と現実の狭間の中を演劇を演じる相手役のように振る舞った。主人公はもちろんこの今、腕に抱きかかえている青い髪色の男のブルーだ。俺はよく何でも同情する心情になる癖がある。段ボール箱に入れられ道の端に置かれた小猫。昔からあるノスタルジーを感じさせるワンシーン。ブルーの顔をもっと近くで特に目を見たい。長い前髪で覆われ見えなくて瞳を探すのに手を入れじっくりと探っていく。手の甲が頰へ触れた。俺の乾燥してざらついている中年の肌が彼の頬をジリっと傷つけていくような感覚が肌を通して伝わってくる。意外にもハリと艶がある。まだ若者なのか?「アア…」息苦しそうにブルーの口元が動く、また何か言っている。さっきも聞き取れない何かを言っていた。「ゆっくり話せばいいんだ」と声がけをしながらさらに探りながら目尻へ甲を伸ばす。「温かい」。大粒の涙と思われる雫の濡れが溢れ出てきた。手の甲のたくさんのシワが一本一本満たされていくのを感じる。「人肌の涙」。唾液を飲み込んだ。心の目を見る。 良い子ならいい。下瞼に触れ涙を拭った後に髪を上げた。薄い茶の瞳だった。青い髪色だけではなく、その瞳も恋人の瞳の色と同じ。驚きじっと見ていると目尻が少し上がり微笑んだように見えた。ホッとする。こちらの言葉が分かっているようだ。その笑顔を見ていると同時に昔のつらく悲惨な記憶を思い出してしまった。それは永遠の恋人の死んだ瞬間。青白い肌に真っ赤に浮かぶ死斑の鮮紅色。おもわず懐かしい名前を叫ぶ「アイ」、「アイ」。俺の目からも涙が流れブルーの鼻の下を濡らした。ブルーの大粒で透明な涙と俺の涙が混ざり合いそのまま鼻水も含んで口内へと落ちて。喉の奥の器官へ入ってしまったのか?苦しそうに咳き込み、口をもごつかせた。もう一度咳き込むと今度は先ほど野次馬たちから投げられたブルーの花びらがまたどさっと俺の太ももへ落ちた。青白い肌は紅潮色に苦しそうに顔を歪め、発汗し始めてきた。月の微細な光の中、目を凝らすと花は紫陽花の萼片。先ほどラジオで開花宣言していた6月の花。どこにでも近所の公園にも咲いている花。紫陽花ならこのブルーの花びらは装飾花で萼片。花はもっと小さい。装飾花は噛み切られ唾液でクタクタに咀嚼され丸まっていた。倒れたのは紫陽花のせいか?この花は口に含むのは止めたほうがいい。毒がある。青酸中毒になる。多めに食せばよくない。大人なら少量なら吐き気やめまいの症状で数日で回復するが大量に摂取すれば命も危なくなる。子供や動物なら同じ量で命の不安も出る。永遠の恋人は紫陽花ではないが同じ中毒の青酸中毒で亡くなった。それも紫陽花よりももっとずっと少ない量で致死量になる猛毒で。 「出せ。口から出せ」俺は叫んだ。口に含んだあとに吐いていたのは紫陽花の毒がまわったのかもしれない。涙を拭っていた指先を今度はぐっと口の中に入れ、花を全部掻き出した。取り出し終わると、震えるような彼の小さな声がやっと聞こえてくる。耳を近づけ懸命に聞き取る。「助けて…パパ」。一言つぶやくとブルーは俺の肩へ顔をうずめ、気を失った。 つづく…。
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