旅の学者

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「旅の学者です」  黒い頭巾を被った初老の男は、何者かを問われてそう答えた。村人たちは首をかしげた。はて、学者先生とは城下町で家に籠り、日がな一日書物をにらんでいるような御方ではないのか?  それがこの秋田藩の男鹿の片田舎の村に来て、しばらく逗留させてくれという。男は本草学(薬草学)の知識があるらしく、村人たちのために薬を煎じてくれるし、子ども達に学問を襲えてくれるので皆しばしこの村の家に住まわせてやることにした。こんなふうに、秋田藩中の村々を渡り歩いているのだという。  しかし男は本草学者だというわけではないようだ。しかも秋田藩の者でもない。元は三河の生まれらしいが、詳しいことは語らない。今まで南部藩や津軽藩、果ては蝦夷地まで旅をしてすでに三十年近く奥羽の地をさまよっているらしい。  それで何をしているかと言えば、その土地土地のことを書き記しているらしい。正月の時に食べるものや田の神祭りなどの神事、農具の形、人々がめでたい場で歌う唄、マタギたちの言葉、果ては市で聞いた罵り言葉まで、いったい何のために書き記すのかわからない事柄ばかりである。  以前、書いたものを見せてもらった者が言うには奥羽各村で使われている臼の絵がびっしり書き込まれていてあきれてしまったという。臼などどれも同じではないか、と言うと、各地方によって違いがあるのだと一刻近く熱弁されてしまった。 「私は臼狂いなもので……」  と、男は子どものような顔で照れ笑いをした。  臼狂い、とは?  謎が深まるなか、頭巾被りの男は意に介することなく、一心不乱に山の神に捧げる幣を見ながらそれを絵に描いている。  一月十五日、小正月の晩になった。  男はある農家で炉を囲んで車座になっている人々の中に混ざっていた。まるで何年も前からこの一家の一員であったかのような溶け込みぶりである。  人々が小正月のごちそうとして鰰(はたはた)の汁物や塩かき鰯を食べ終わった頃、突然、オーオーオー、という怒鳴り声が聞こえ、戸が荒々しく開け放たれた。  入ってきたのは二体の異形のモノであった。  高い角をつけた朱色の面をかぶり海藻の髪を振り乱し、ケラ(肩蓑)をまとって、背にはカラカラと中の何かが音を立てる箱を背負い、手には恐ろしい小刀を握っている。 「わああ、生身剥だーーー!」  子ども達は驚ぎ慌てて家の隅や柱の陰に隠れる。 「あれが、“なまはげ”」  頭巾の男は一言そう呟き、その姿をひたすら凝視している。  家の主人はそっと餅をなまはげに差し出した。冬、炉にあたりすぎてできた火斑を剥ぎにくるのである。もちろん小刀で剥ぐ真似をするだけであるが。  餅をもらったなまはげは、隅でガタガタ震えている子ども達に「わあ、こわいぞ、なくな」とよけいに脅して去っていった。  翌日、「旅の学者」こと頭巾の男は、一日中熱心に絵を描いていた。 「昨夜の“鬼”はこのような感じであったでしょうか?」  そう言って男が差し出した絵を見て、宿代わりの家の者たちはすっかり驚いてしまった。  絵には戸口の前に恐ろし気に立つ二体のなまはげと、戸の陰からそっと餅を差し出す家の主人、そして隅で小さくなる子ども達の姿が描かれていた。特に、なまはげの姿は今にも絵から飛び出してくるかと思うほど昨夜の姿そのものの再現であった。以前から村の人々に聞いていたのであろう、なまはげについての伝説も絵図の隅に記されている。 「まったくこの通りですが、しかしわかりませんね。こんなものを描いて残して、なにになるというのです? 鄙のたいしたことのない風習にすぎないものを」  男はにこにこ笑って 「さて、これが何になるか私にもわかりかねますが……しかしやはり書き残しておきましょう。いまこの地にたしかにこのようなことがあったのですから」  それから春になると、「旅の学者」はまたふらりと別の村に旅立っていった。  男の名は菅江真澄という。  三十年近くに渡って奥羽各地を旅し、その風習を記録し続けたこの男は、柳田邦夫をして日本民俗学の先駆者と言わしめた人物である。  真澄は文化八年(1811)、男鹿で『男鹿の寒風』という日記に記したものは、なまはげに関する最古の記録であり、また近世におけるもっとも詳細な記録と評価されている。
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