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秘密と自殺と片想い
友達が死んだのは、2004年9月の下旬。首を吊り、自らを殺した。十七歳だった。
俺たちクラスメイトは、その死を担任の口から曖昧に聞かされた。担任はただ「昨晩亡くなった」と言っただけだったが、静寂の中にざわめきがあるのを誰もが認識していた。
その後、俺だけが指導室に呼ばれ、友達は自殺をしたのだと知らされた。親はそれを隠したいらしく、葬儀は家族だけでひっそりと行うということだった。
なぜ担任は俺にそれを伝えたのだろうか。
答えは簡単だ。俺たちが友達だったからだ。
友達というのは、よく分からないものだ。家族のように血で繋がっているわけでもない。恋人のように誓いあった仲でもない。それなのに、俺たちは俺たちのことを友達だという。
なぜ?
根拠は?
どこから友達?
いつから友達?
そんなもの知らないし、分からない。だが、あいつと俺は友達だ。
クラスメイトの一人が死んだというのは、大きな事件だった。一度も友達と会話したことないだろうと思われる女子や、別段仲の良いわけじゃなかった男子も友達のことを話していた。そして、どこから漏れたのか自殺のことが噂されはじめた。蔵で首を吊ったという情報は噂で知った。誰かが話題にするともれなく付いてきた。友達を見たことあるかどうかも分からない他クラスの奴や、違う学年の奴らも話のネタにし始めた。
それが良いことか悪いことか、俺には決めることができなかった。ただ噂話が勝手に耳に入ると、必ず気分が悪くなった。
一人のクラスメイトが俺に言った。お前が一番仲良かったんだから何か知らないのか、と。
俺はその度に首を振ることしかできなかった。でも、心の中ではこう悪態をついていた。
そんなもの知らないに決まっているだろ。俺たちは確かに友達だが、知らないことだってある。お前たちもそうだろ。恋人や親の全てを知っているのか。知らないだろう。
だが、そういう態度をとっていても、やはり俺は友達で、あいつのことを一番知っているのは俺なのではないかと思う人は多かった。その中には、友達の両親もいた。
担任を介して、俺は友達の親と会うことになった。十月の上旬で、その日は雨が激しく降っていた。
放課後、職員室で数十分待たされ、その後に校長室で友達の両親、担任、そして校長と話をした。話といっても、大半は質問だった。親が俺に、学校生活に問題がなかったか聞いたのだ。
俺は、問題はなかったと正直に言った。あなた方が考えているような辛い出来事は一切なかったと断言した。
あなた方のお子さんは大人しかったが、誰かに嫌われることもなく、苛められることもなかった。もし誰かが苛めていたのだとしたら、それは俺になるだろう。俺たちは友達だった。ちょっとしたちょっかいや悪戯をしたことはある。もしかしたら、それを苛めと勘違いした馬鹿がいなかったとも限らない。
友達の親、とくに母親は目に涙を浮かべながら、それでも何か原因があるのではないかと聞いてきた。俺はこれにも、首を振ることしかできなかった。
あいつが死を選んだ理由を、俺は本当に知らないのだ。そして、想像しても分からないのだ。これは誰もがそうなのだと思う。一番身近な家族、高校に入ってから一番長い時間を共に過ごしただろう俺にさえ分からないのだ。
そのことをしっかりと認めると、俺の中にある道徳心のようなものが少しだけ傾いた。
友達なのに何も知らなかったのか。
俺は俺にそう言った。
もちろん俺は、友達にも分からないことはある、とクラスメイトに言ったときよりも強い口調で反論した。
でも、俺は折れなかった。じゃあ、友達じゃなかったのかもね。生意気にそう言った。
雨の中を帰りながら、玄関扉を開けながら、部屋着に着替えながら、ご飯を食べながら、宿題をやりながら、テレビを見ながら、風呂に入って髪を洗いながら、風呂あがりのアイスクリームを食べながら、歯を磨きながら、明日の準備をしながら、目覚まし時計をセットしながら、布団の中に入りながら、そして眠りにつくまで、俺は死と友達の自殺、そして理由について考えた。何も答えは出なかったが、俺はどうにかして分からないものかと思い始めていた。自分にも親はいるし、子供はいないにしろかわいい弟がいる。家族の誰かが自ら命を絶ったとなると、やはり悲しいだろうと思う。そしてもちろん、なぜそんなことをしたのか、理由が知りたくなるだろう。
秋雨前線がようやく消えるという頃に、俺は一つの決心をした。いや、決心というほど力強いものではない。少しやってみようかなと思っただけだ。つまりは友達を失くした自分を慰めたかっただけだ。
あいつはなぜ自殺をしたのだろう。それを知ることにした。
俺は黒板に白いチョークで書かれた文字を見ながら、無情にもすでにこの教室からなくなった机と椅子のことを考えていた。あいつはどこかに、死ぬ理由を残していないのだろうか。
放課後になってから、俺は職員室にいる担任のもとへと向かった。そして、友達の使っていた机と椅子がどこにあるのか聞いた。
「え? 使ってた机と椅子?」
「はい」
「あれは」
先生は不思議な顔をしながら、それが北校舎の使われていない教室にあると教えてくれた。先生は、なぜいまさら俺がそれを探しているのか聞きたいようだった。
「ただ何かないか知りたいんです」
これは本心で、それ以外には何もなかった。
三十代の担任は短く刈った髪を撫でて返事らしきものをした。
北校舎の四階に使われていない教室があった。俺は職員室で借りた鍵を使って、そこへと入った。二クラス分くらいの机と椅子が教室の隅に積まれていた。友達の机と椅子は、その塊に並べられて、窓際に置かれていた。なんか怖い、と訴え、気分の悪くなった女子の言い分で机と椅子はここに移されたのだ。
俺は机の表面をなぞった。右上に一つ大きな穴が開いている。これが、友達の使っていた机という証拠だ。
さて、と俺は屈んで机の中を見た。何も入っていない。……当たり前か。
次に手を突っ込んで、傷か何か、それこそ遺書のようなものが刻まれていないかどうか確かめた。机の表面とは違い、ざらざらとした感触は一つもなかった。手を抜いてみると、灰色の埃がほんの少し付いていた。
椅子も同じようなものだった。目ぼしい傷や手掛かりになるようなものは何もなかった。
教室の扉に鍵をかけ、俺は職員室へと向かった。担任に鍵を返したとき、何か見つかったかと聞かれた。
「いいえ、何も」
果たして死の理由は学校内に存在しているのだろうか。校門から外に出ながら、俺は額を押さえた。
もしかしたら、俺が知ることのない場所に理由があるのかもしれない。家族だったり、中学の頃の友達だったり、またはインターネット上にそれがあるのかもしれない。
グラウンドでは野球部が大きな声を出しながら練習をしていた。地平線まで飛んでいきそうな、聞き心地のいい金属音がたまに鳴っている。駅へと向かう道路には多くの高校生がいた。俺のような一人で帰るものもいれば、友達で帰るものもいる。もちろんカップルもいる。
自分の部屋に着くと、俺はノートパソコンを開いた。そして、メモ帳を開き、今日の日付を入れた。
日記は中学一年からの日課だった。始めたのは4月1日で、それ以来、俺が何をしたのか全く分からないという日はない。親と喧嘩した日のことも、初めて彼女ができた日のことも、そして別れたときのことも、この日記にはある。
俺はさっそく日記を書き始めた。書くことは決まっている。天気と、この日に一番記憶に残ったことだ。そして今日、一番記憶に残ったことというのは、理由探しを始めたことだ。
俺はなぜ友達が自殺したのか気になるということと、まず初めに机と椅子を調べたということを書いた。そして、理由が学校生活に関係なく、それ以外にあるのではないかという考えを書いた。
両手でタイピングをしていると、ふと、もしかしたらこういった日記のようなものがあいつにもあるのかもしれない、という考えが浮かんだ。
もしそのようなものを持っていたら、理由に大きく近づける気がする。だが、家族が見つけている可能性が高い。そうすると、そこに書いてあるものは役に立たないただの言葉の羅列のような気がする。いや、それでも見てみる価値はあるだろう。
俺はこのことも日記に書き、Dドライブの奥深くにある日記フォルダに保存した。
十一月に入ると、寒い日が続いた。俺は秋風を横に受けながら、駅前である人物を待っていた。十分ほど待っていると、改札口から続く階段を、クラスメイトの夏目冬子が降りてくるのが見えた。
俺はその姿を見つけると、彼女に近づいた。彼女も俺を見つけると、こちらにやってきた。
「ごめんなさい。待った?」
「いや、大丈夫。待ってないよ」
俺がこうして彼女に会っているのは、淡い感情だとか、青春だとか、ピンク色をした何かのためではない。
彼女は友達と同じ中学校の出身だった。
俺は初めて見る彼女の私服に何の感動も覚えずに、駅前にあるファミリーレストランへ入った。
「突然ごめんね」
「ううん。習い事の帰りだから」
彼女はピアノを習っているらしかった。確かに指はすらりと長い。
俺が彼女に初めてコンタクトを取ったのは金曜日の昼休みだった。入学以来、クラスで大人しくしていた俺が、女子のグループに割って入るのは、奇妙で驚くべき行動というふうに受け止められたに違いない。だが、彼女のいたグループには俺と同じ中学校出身の女子がいた。その子の俺に対する正確な解釈と、そのことを周りに伝える完璧な解説のおかげで、俺は突飛な行動をし始めた変人という称号を得ずに済んだと思う。俺は実はチャラい性格で、雰囲気に似合わず女好き、ということになっているだろうから、誰が見てもおかしくはない。
俺は少し話したいことがあるから、土曜日か日曜日に時間を割いてもらえないかと頼んだ。夏目冬子は戸惑いながらも、周りの女子に目配せしつつ了承してくれた。そして俺は彼女から携帯電話の番号とメールアドレスが書かれた紙を貰った。
俺はそれをポケットに入れ、今日の夜に連絡すると言った。
グループから離れるとき、そこにいた俺のことをよく知っている女の子と目が合った。中学三年の冬、俺がその子と別れるときにした会話を、ふと思い出した
恋人じゃなくて、お嫁さんにしたい。
結婚するわけがないでしょ。
ドリンクバーだけを頼み、自分と夏目冬子の飲み物を取ってくると、俺はさっそく友達のことを切り出した。このことは金曜日の夜に伝えていた。
夏目は、昨日メールで話したように彼とはそんなに親しくなかった、と言った。だが、俺はそれでも何かないか聞くつもりだった。
まず聞いたのは、友達の交友関係だった。俺の知らない交友があったはずだ。
夏目はまず友達と仲がよかった男子のことを教えてくれた。
その男子は香月君といった。テニス部に所属していたそうだ。その成績はというと、これといって優れたものではなく、部活動自体ただ体を動かすのを楽しみにしていたというだけらしかった。夏目曰く、顧問も怪我と事故だけには気をつけろと言うだけで力は入れておらず、活動のほとんどを部員に任せていたという。
俺は、中学時代、友達が部活に入っていたかどうか聞いた。俺も一度は聞いたことがあると思うが、記憶にはない。たぶん入っていなかったと思うが、間違っていてはいけない。
夏目は俺の記憶通り、友達は部活に入っていなかったと教えてくれた。俺はそれに頷き、オレンジジュースを飲んだ。
香月君とやらの連絡先は分かるだろうか。その問いに夏目は分からないと答えた。香月君と同じクラスだったのは中学一年生のときだけらしかった。
「彼の連絡先を知っていそうな人はいるかな?」
「分からない」
夏目は首を小さく振った。
彼女は自分で言ったように、あいつについてあまり知らないようだ。
「彼とは中学時代、三年間同じクラスだったけど、そんなに話したことはないのね。他の人もそうじゃないかな。あなたと笑いながら話してるのを見て驚いたくらい。だから、彼について知っていることはあまりないの。ごめん」
夏目はメロンソーダを飲みながら、ゆっくりと言った。
俺は謝る必要なはいと手を振ったが、彼女が期待はずれであったことを自分の中で認めた。それにしても、中学時代はさらに大人しかったとは。
他に夏目に聞きたいことはあるだろうか。夏目の他に――同じクラスに、友達と同じ中学校出身の生徒はいるだろうか。
「いることはいるけど……。あんまり話したことない。高校に入ってから、一回か二回だけ」
夏目は肩を小さくしながら答えた。
「それは誰?」
「紅根さんがそう。同じ中学」
紅根桜子。たしか、ソフトボール部に入っている、がっしりとした体格の女子だった。もし喧嘩したら負けるかもしれないと思ったことがある。
その子の……連絡先は自分で聞くか。俺がそう呟くと夏目は「そうね、私は知らないし」と少し機嫌が悪そうに言った。
これ以上は何もないかな、そう思い、これで最後にしようと、友達が死ぬ前、何か気になったことはなかったか聞いた。
彼女は何もないと答えた。
レジで会計を済ませ、外にでると、夏目冬子は俺にあることを聞いてきた。
俺の元彼女があなたについて語っていることは全部本当なのか、と。
俺は頷き、全部本当だ、彼女が俺について嘘をつくことはない。彼女は俺より俺に対して正直だ、と答えた。
夏目はそれを聞いて、ひどいね、と小さく言った。
友達からは夏目が同じ中学校出身だとは聞いていたが、同じクラスにもう一人そのような生徒がいるとは聞いていなかった。たしか俺は「同じ学校の人はいるの」と聞いた気がする。すると友達は「あの子」と夏目冬子を見た。それだけだ。あの子と、あの子、なんてことは言わなかった気がする。なぜだろう。
そんなことを考えながら、俺は学校から友達の家まで歩いた。それが正しい帰宅路かどうかは分からなかったが、地図上では最短ルートだった。腕時計で時間を計ったところ、到着まで十七分強かかった。運よく赤信号に捕まらなかったら二、三分は早くつけたかもしれない。
友達が亡くなった日、校門で別れたところまでは何もなかったように思う。俺が「またな」と言うと、友達も「またね」と言ってくれた。それはその日だけではなく、前日も前々日も、どちらかが風邪か何かで休まない限り、そうだった。少しも変なことではない。つまり、急に自殺したくなったのなら(そういうことがあると聞いたことはないが)、あの日に何かあった可能性がある。もしかしたら、この帰宅路に答えがあるのかもしれない。あの日の完全な再現はできないが、それでも……。そう思い、俺は歩いた。だが、結果は、何かがあったのか、もしくは何もなかったのか全く分からないということだった。
俺は金曜日の放課後、担任に友達の家がどこにあるか聞き、線香をあげさせてもらえないだろうかと電話するために、電話番号も教えてもらった。俺は一度も、友達の家へやってきたことがなかった。家がどこにあり、どんな外観をしているのかさえ知らなかった。
俺は家に帰ると、制服のまま、教えられた番号に電話をした。電話に出たのは母親で、俺が率直に線香を上げたいと言うと、優しい声で俺の来宅を了承してくれた。
家は一軒家で、昔ながらの日本家屋だった。二階はなく、平屋建てだった。その代わりに敷地は広く、その隅には例の蔵があった。蔵の壁は白く、カビのようなものも外から見える範囲にはなかった。漆喰だと思うが、知識がなく、確証はなかった。ただきれいだった。
友達の家の周りにある家屋も同じようなつくりで、この地域は昔からある住宅街のようだった。
表札に友達の苗字が彫ってあるのを確かめてから、俺は敷地内へ入った。そして玄関前に立って、チャイムを押した。すぐにインターフォンから母親の声がして、俺は名を名乗った。
少しだけ待つと、玄関が開いた。友達の母親はきちんと化粧をしていた。
俺は仏間へと通された。そこには父親がいて、俺は頭を下げて挨拶をした。
「よく来てくれたね」父親は微笑んだ。「あいつも、うれしいだろうね」
おじさんはそう言ったが、俺には死の向こう側というのがあるのかどうか怪しんでいる人間だった。
「そうだと僕もうれしいです」
この言葉が精一杯のものだった。もちろん、あいつが喜んでいるのなら、うれしいが、それは誰も分からないだろう。
俺は仏壇の前に座り、線香に火をつけ、手を合わせた。写真の中にある、学生服を着て笑っている友達を、瞼の裏に残しながら、俺は、一人頭に思い浮かべた。
なぜ死んだ。何があった。俺はそれに関係があるのか。学校のことに関係しているのか。それとも全く関係がないのか。衝動的な自殺なのか。それとも計画的な自殺なのか、云々。
1分以上合わせた手を離すと、俺は両親の方へと顔を向けた。
母親も父親も少し目に涙を溜めているように見えた。
さて、と心の中で思い、俺は一つ二人にお願いしようと口を開いた。それは友達の部屋をよかったら見せてもらえないかというものだった。
なぜなら俺は、友達に貸していたものがあったからで……と、一度はそんなことを考えたが、その嘘を吐くことをやめることにした。俺は正直に、なぜ彼が死を選んだのか気になっている。もしかしたら、友人の自分にしか分からないことがあるかもしれない。だから、よかったら部屋を見せてくれないか、と頼んだ。
二人は顔を見合わせてから「いいですよ」と答えてくれた。
友達の部屋は、俺が通された部屋とは逆側にあり、その部屋は蔵に近い場所にあった。窓からは庭が見え、その先に蔵が見えた。
部屋にはベッド、勉強机と椅子、洋服ダンス、本棚があった。他にはテレビやラジオ、それほど大きくないオーディオコンポがあった。
部屋はよく片付いていた。友達の性格上、それはあり得ることではあったが……。
おじさんは、亡くなる前とほとんど同じ状態なのだと言った。つまり、部屋が片付けられたわけではないようだ。
それにしても綺麗だ。ベッドの上には、布団がめくれるわけでもなく、しっかりと整えられている。机の上には何も出ていない。カーペットの上にも、何もない。
俺はおじさんに、机の中や本棚を見ていいか聞いた。少し間があったが、おじさんは頷いてくれた。
椅子を引き、それから俺は一番大きな引き出しを引いた。中には何かの説明書やプリント、所謂書類が入っていた。奥まで見て、さらに何か特別なものはないかと調べてみたが、何もなかった。
次に右側にあった少し小さな引き出しを見てみた。入っているのは文房具と財布だった。こっそりと財布の中身を確認した。入っているのはお札が数枚と、どこかの店のポイントカードだけのようだった。
その下の引き出しはどうだろう、そのまた下の引き出しは……そうやって見ていったが、気になるものはなかった。教科書やノートを覗かせてもらったが、そこにはうまく整えられた黒板の写しがあるだけだった。
本棚はどうだろう。俺は友達の両親に見られながら、本棚の前に移動した。本棚は一メートルもない小さなものだった。棚には漫画本が数冊と中学の卒業アルバム、そして文庫本が三冊あった。文庫本には、本屋の名前が書かれた紙製のカバーが付けられていた。本で埋まっていない部分は、CDで埋まっていた。クラシック、ジャズ、ポップ、ロック、パンク、メタル、スクリーモ、クラブミュージック、演歌。友達は音楽と呼ばれているものなら何でも聴いていた。ああ、そうなんだよ。彼は音楽が好きなんだよ。本じゃない。
俺はカバーに隠れて見えなかった文庫本を手に取り、三冊全てのタイトルを読んだ。『若きウェルテルの悩み』『はつ恋』『友情』。
「小説を読むやつだなんて、知りませんでした」
「そうね」とおばさんは少し考えるように言った。「その本は最近増えたものかもしれない」
俺はページをぱらぱらとめくった。三冊とも、最初のページに紙のしおりが挟まっていた。
俺は少し考え、これを借りてもいいかと聞いてみた。もし最近買ったものだとするならば、本に何かヒントがあるかもしれない。
おじさんは一度、おばさんと目を合わせ、頷いてくれた。
次に俺は卒業アルバムに手を伸ばした。香月君というのがどういった男子なのか気になった。
俺は、失礼します、と言ってアルバムを開いた。そして、友達が何組で、香月君という男子のことを知っているかどうか聞いた。
友達は三組だった。そして、香月君が何度か家に遊びにきたことがあると教えてくれた。
三組を見た。三組には今より、いや、ほんの少し前より、ほんの少し幼い友達がいた。それは、中学の学生服のせいかもしれなかった。そのクラスに夏目冬子がいて、彼女は長い髪を二つに結んでいた。醜いわけでなく、どちらかというと可愛らしい子だったが、写真でみても、やはり俺は彼女にピンと来なかった。
俺は一組のページに戻って、香月君を探した。いない。次に二組のページを開いて、彼を探した。彼はいなかったが紅根がいた。クラスの一番小さな男の子よりも、体が大きいのが写真からも分かった。動いている彼女より凛々しい表情をしている。……夏目よりも彼女の顔のほうが俺は好きだ。だが、だからといって何かを仕掛けようとは思わない。何かあったら殴られそうだ。殺されそうでもある。
次は四組だ。俺はページをめくった。香月君は一番左上から右に四つ移動したところにいた。坊主に近い、短いヘアスタイルの男子だった。顔は割と男前かもしれない。
「これが香月君ですか?」と俺は念のためおばさんにアルバムを見せた。
おばさんは、そうよ、と頷いた。
そうか、この男が香月君か。……見たことはないな。あいつの口から聞いたこともない。だが、覚えておこう。
卒業アルバムを元の場所に戻し、俺は二人に向きなおった。
「パソコンは持っていたのですか」
個人のでもいいし、家族共有のものでもいい。俺はパソコンの中に、秘密のデータがあることを期待した。
しかし、おじさんとおばさんは首を振った。家にパソコンはなかった。
おばさんは、俺が何も入れるものを持っていないのに気付いて、小さな紙バッグに文庫本を入れてくれた。俺は何度も頭を下げ、また返しにくるときに連絡しますと言いながら、玄関を出た。
敷地から外に出るまで二人はこちらを見ていた。別にそれがおかしいことだとは思わなかったが、二人が息子を見送ることは一生ないのだと思うと、とても悲しくなり、同情のような感情を覚えた。
塀の向こう側にある蔵を見ながら俺は歩いた。蔵の中も見たかったが、さすがに言いだすことはできなかった。もしかしたら、二人もあの日以来、そこに入ることができないのかもしれない。そんな二人に、ぜひ見せてくれとは言えない。俺にだって、分別だとか、礼儀だとか、常識のようなものは持っている。いやいや、お前はそんなもの持っていないよ、と言う人はいるだろうが。
俺は友達の家から、もう一度、学校へと向かった。今度は通学する気持ちで移動する。
帰宅路と同じ道だが、それとは少し違って見える景色が、ゆっくりと流れていく。友達は通学路と帰宅路、どちらが好きだったのだろうか。なんとなくだが、俺は通学路の方が好きだ。それは一度も信号に捕まらなかったせいもあるかもしれない。
学校の校門前に着くと、今度は駅の方向へと向かった。駅前には、この文庫本のブックカバーに載っている名前の本屋があったはずだ。友達がそこで買ったかどうかは定かではないが、行く価値はあるだろう。
最寄りの駅には五分ほどで到着した。近くのスーパーには多くの人が出たり入ったりを繰り返していた。俺は駅前の広場を通り、本屋へと歩いた。
本屋に人はほとんどいなかった。女性客が一人雑誌コーナーにいて、小学生男子一人がコミックコーナーにいた。俺はレジにいた店員さんに話を聞くことにした。
少し聞きたいことがあるのだと言うと、眼鏡をかけた若い女性の店員さんは、どうされましたかと俺を見上げた。俺はこの本がここで買われたかどうか知りたいと、紙バッグから三冊の文庫本を取り出した。
店員さんは、本をお預かります、少々お待ちくださいと、奥にある扉へと引っ込んだ。はたしてレシートも無しに、ここで買ったどうかなんて分かるのだろうか。
レジの横にはポイント会員入会のお知らせが出ていた。もし友達の財布の中に入っていたポイントカードが本屋のものだったとしたのなら……。もっと調べておけばよかった。
俺はレジ近くにある雑誌コーナーへと向かい、何か面白そうなものはないかと探した。女性誌から始まり、料理本へ、それから裁縫や家電、インテリアと続いた。そのあとに男性誌があり、次にスポーツやアニメ、カメラ、鉄道など、マニアックな雑誌が続いた。だが、どれも俺の好奇心を刺激しなかった。ページをめくってもそれは変わらないだろうと思う。
しばらくすると奥から店員さんが出てきた。俺はそれを見て、レジへと戻った。
本の一冊はここで買われたものということだった。その本は「友情」だった。いつ買われたのか分かるかと聞くと、九月の最初の頃だと教えてくれた。他の二冊はおそらくここで買われてないらしい。
では、他の二冊はどこで買われたのだろうか。この辺りに同じ名前の書店があるのだろうか。
そのことを聞くと、近くではないがあると教えてくれた。そこは学校から歩いて30分もかかるところだった。
そこへ行くべきかどうか、俺は迷った。いや、行こうとは思うが、果たして今日行くべきか。正直、歩いて行くのはきついし、家に一度帰って自転車で行きたくもない……。今度にしようか。
どうもありがとうございます、と言い、俺はレジから離れた。店員さんが少し不思議そうにこちらを見ている気がした。
家に帰ると、さっそく俺は本を開いた。果たしてどのくらいで読み終えられるのか。読書をしない俺にとって、この課題はほんのりと苦痛だった。それでも友達の自殺と関係があるのなら、読まなければならない。
朝、十分ほど早く家を出た。たしか紅根は早い時間から教室にいるはずだ。朝に練習をやっているのか、一緒に学校に行っている友達が早いせいなのか、それとも他に理由があるのかは知らないが。
なぜ俺がそれを知っているのか。それは一度ばかり、時間を一時間も間違えて家を出たことがあるからだ。不幸にもその日は親が子を置いて旅行に出発した日だった。まだ寝ている弟を置いて、玄関のドアに鍵を閉めたことをよく覚えている。
学校に着いてからは担任が来るまで三十分くらい待つはめになった。そして鍵を貰い、教室でぼーっと黒板を見ていると、紅根が入ってきたのだ。もちろん俺たちは朝の挨拶なんてしなかった。お互い興味がなかったし、こいつは誰だ、あ、もしかしてクラスメイトなのかな、なんて思っていたのかもしれない。
教室のドアを開けると、紅根が窓際の席に着くところだった。グッドタイミングというわけだ。だがしかし、不幸中の幸いという言葉があるように、幸い中の不幸というのもあるわけで。野球部に所属している二人がすでに教室にいて、二人ぺちゃくちゃと何かを話していた。
……せめて寝ていればいいものを。
俺は廊下側一番後ろの席に鞄を置いて、椅子に座らずに、紅根の元へと歩いた。
紅根は鞄を机の横にかけ、胸ポケットからイヤフォンを取り出しているところだった。
俺は彼女の隣の席に座った。彼女は訝しげにこちらを見た。
「同じ中学校だったんだよね」
俺は友達の名前を出すのを忘れてそう言った。
しかし紅根は誰のことを言っているか分かっているようだった。
「そうだけど」三白眼の鋭い目がこちらを向いた。
「放課後か、電話でもいいから、あいつの」
「デートをしよう」彼女は俺の言葉を遮って言った。
「ん?」
「次の土曜日デートしよう。時間は午後の四時過ぎ。待ち合わせの場所は、神社前ね」
野球部の声がいつの間にか止んでいて、その二人の視線を背中に感じた。
彼女は椅子に座り、体をこちらに向けて足を組んだ。しっかりとしているが、太過ぎず、意外にもすらりとしている彼女の太ももが見えた。彼女はポケットから携帯電話を取り出した。
「メルアドと番号教えてくれる?」
彼女の携帯電話にはピンク色をした可愛らしい熊のストラップがさがっていた。
俺は紅根との会話をよく覚えている。それは中学時代に付き合っていた幼馴染との会話と同じくらいだ。不思議なもので、世の中には合う人間と合わない人間がいる。どんなに優秀で性格がよくても、一緒にいてなんだか居心地が悪いという人もいるし、反対に、どんなにクズで酷いやつでも、なんだか会話が弾むなあと思うこともある。これが、波長が合うというやつだろうか。彼女を思い浮かべるとき、俺はそんなことを一緒に考える
俺は彼女に好意を持っていた。それは青春に付いてまわるような、浮ついているような気持ちではなく、単純に人間、もしくは生き物として好きだということだ。
それと同時に、俺は一度彼女を抱いてみたいなと思っていた。それはあの太ももを見たときから思っていることだ。服を脱がせて、どういった乳房をしているのか、どういったアンダーヘアーをしているのか。そして太ももから足を眺めて、くるりと反対を向かせる。前とは反対に、踵からふくらはぎを見て、小ぶりなのか、また大ぶりなのか、もしくは大ぶりでも引き締まっているかもしれない臀部を見る。それから腰のくびれを見て、強い筋肉が詰まっているだろう背中を見る。俺は彼女を後ろから抱き寄せ、耳元に……なんて妄想を働かせたくらいだ。
もちろん実行には移さないし、移せない。
波長が合うのと同じように、セックスが出来るか出来ないか、恋愛が出来るか出来ないか、そういったものも世の中にあるのだ。可哀そうなことに。
俺は土曜日までの時間を有意義に過ごせなかった。俺は担任の先生に、この学校にいる、友達と同じ中学校出身の生徒を教えてくれないかと頼んだ。だが、断られた。プライバシーとか、そういったものもあったかもしれないが、たぶん担任は保護者のことを考えたのだ。確かに教員が協力しにくいものではあるかもしれない。理由探しは保護者に直接頼まれたわけでなく、生徒個人がやっていることだ。
「それに、そういうのは、なんだ……。どうなんだ? そりゃあ、友達だっただろうが」と自殺の理由を探るというのは、少しやり過ぎじゃあないのかと、俺はやんわりと言われた。
俺は分かったふりをした頷きを何度かしながら、失礼しますと職員室を出た。
俺は他のクラスに入って、同じ中学校の人間を知らないかと聞いて回ろうかとも思ったが、やめた。担任が言ったように、それは少しやり過ぎのような気がしてきた。あまりおおげさにもしたくない。学校からの正式な注意なんて受けたくないし、万が一、自殺の理由に辿り着いたら、それが噂として広がる可能性はぐんと高くなる。きっとそれを友達は望んでいない。もちろん彼の家族も、そして俺も望んでいない。
結局、俺は友達から借りた小説を読むことしかできなかった。水曜日に「友情」を読み終え、木曜日からは「若きウェルテルの悩み」を読み始めた。
同時に、なぜ友達がこの本を買い、読んだのか、俺はそれを考えた。
友達は恋愛に悩んでいたのだろうか。
この考えが出てきたのは、土曜日の昼前だった。これらの本を読めば、誰もがそう考えるだろう。
土曜日はどんよりと曇っていて、鳥肌が出るくらい寒かった。今にも雨が降り出しそうだったが、天気予報は傘マークを出していなかった。俺はそれを信じ、傘を持たずに、紅根との待ち合わせ場所である神社へと自転車を漕いで行った。
そして午後四時十五分に、紅根は自転車に乗ってやってきた。私服ではなく制服だった。自転車の前かごには大きなリュックが入っていた。
「部活終わりだから」
俺は頷いた。
紅根の後姿を見ながら、俺は自転車を漕いだ。神社から遠ざかり、ショッピングモールに着くと、俺たちは自転車をそこに停めた。
デートにしては、随分と洒落気のないところだなと思ったが、元々デートではなく友達について話をしたいのだ。邪魔が入らない場所だったらどこでもいい。
ショッピングモールへと入ると、まず本屋に入り、そこを抜けて、レストランやカフェが併設されたフードコートへと出た。ハンバーガーショップ、ラーメン店、焼き肉店、定食屋、様々な店があった。たしかハンバーガーショップとラーメン店はフードコートに入っているには珍しく個人経営だったはずだ。どちらも2号店で、テレビで特集されていた気がする。
フードコートを足早に抜けるとケーキ屋と和菓子屋が並ぶ一角に出た。そこにはカフェがあった。俺は紅根は引き連れられ、カフェへと入った。
昭和からあるような、渋い色合いのテーブルやソファがそこにはあった。壁にはイタリアかフランスか、どこか海外の街が描かれた絵画があった。窓ガラスの一部がステンドグラスになっているところもある。カウンター奥にはマスター。ウェイトレスは一人、飲み物を運んでいた。
「こっち」と紅根は手で俺を招いた。
紅根が座ったのは、窓際の席だった。
できるなら奥の席が良かったのだが。ここじゃあ、誰に見られるか分からない。
「奥の席のほうがいいんじゃないかな」
「ここがいいの」
俺はそう返され、軽く頷いた。彼女がそう言うのなら仕方ない。言葉でも、力でも、俺は彼女に敵いそうにない。
ウェイトレスが来ると、俺はコーヒーを、紅根はストロベリーパフェを頼んだ。
「意外とおじさんなんだね」ウェイトレスが去ると彼女は言った。
君こそ意外に乙女なんだね、と俺は思ったが、もちろん口には出さなかった。俺はただ肩をすくめた。
紅根に対して聞けることはなんだろうかとずっと考えていた。まず友達を知っていたか、話したことがあるか。友達と仲のよかった人を知らないか。香月君というのがいるらしいが、知っているか。知っているのなら、どんなやつなのか教えて欲しい。生前の友達に関して何か気になったことはないか。
俺はそれらの考えを、「あいつのことなんだけど」と切り出した。だが、その考えは次に彼女が発した言葉にすっきりさらわれた。
「彼は私の恋人だったの」
……何だって? 今、彼女は何と言った?
「え?」
「私、彼女なの」
「……それは、あいつの?」
「そう」
俺は驚きを隠せなかった。声もいつもより少し大きくなっていた気がしたし、瞳孔も大きく開いていたような気がする。
そんな話聞いたことがない、と俺は正直に言った。紅根が友達の彼女だなんて思いもしなかったし、そもそも、友達に彼女がいることさえ考えたことがなかった。
紅根はスプーンでストロベリージャムのついたホイップクリームをすくって、口へと運んだ。そして、あの人は色々隠す人だから、と言った。そして、今回のようにね、と付け加えた。
いつから付き合っているんだと俺が聞くと、紅根は少し間を置いて、高校に入るとき、と答えた。
俺はコーヒースプーンをいじりながら考えた。俺が同じ中学校出身の子が同じクラスいるかどうか聞いたとき、友達は紅根をそうだとは言わなかった。その理由は紅根が自分の恋人だと知られると恥ずかしかったからか、またはそれに似た理由のせいだろうか。……だとすると恋愛関係を理由とした自殺は違うか?
「喧嘩か何か」と言ったところで俺はその質問を止め、単刀直入に聞くことにした。「自殺の理由を知っているの?」
紅根は手の動きを止めた。鋭い上目遣いで、こちらを見ている。
「知っていたら、連織君とこんな話していないよ」
久しぶりに名前を同級生に呼ばれた。友達が死んだあの日以来だ。
では喧嘩か何か、もしくは別れ話をしたか、と聞くと、紅根は少し微笑んだ。そして首を横に振り、何も、と答えた。
「つまり、仲は良かったわけだ」
「そう思う」
デートはよくしていたのか。俺は単純な好奇心で聞いた。紅根は日曜日に少しと答え、なぜなら土曜日は部活があったからと教えてくれた。どこに行っていたんだ、と俺が聞くと、色々、と答えた。
そういえば、と俺はデートという言葉で思い出したことを紅根に言った。
「なんであの日、俺にデートしようなんて言ったの?」
「だって、教室に野球部がいたでしょ」
俺は頷き、だからどうしたんだ、という顔を作った。
「私も彼が死を選んだ理由を知りたいけど、あまり大げさにはしたくないの。もしそれが分かったとき、それが広まるのだけは嫌。だからデートという言葉でカモフラージュしたの。高校生って色恋沙汰が好きでしょ?」
俺は頷き、コーヒーを一口飲んだ。
「……あと、彼が自殺したと噂を流したのは私」
もう一口飲もうと口に持っていったカップを俺は宙に止め、戻した。
俺が紅根を見ると、彼女と視線があった。
どうしてだと思う、と彼女は聞いてきた。俺は少し考え、誰か理由を知っている人がいないか知りたかったからかな、と答えてみた。
だが紅根は、ううん、と首を振った。
「私、部活があるから、誰か私の代わりに理由を調べてくれる人がいないかと思っていたの。そう思って噂をソフトボール部の部員に流したの。そうして、しばらく待っていたら連織君がやってきたってわけ」
つまり、俺は紅根の手のひらの上にいたってことだ。
「ううん。実は、誰も調べないだろうと思っていたの。だから連織君がやってくるとは思っていなかった。……本当に友達だったんだね」
本当に友達。俺はコーヒーを飲みながら頷いてみたが、俺が友達の、もしくは友達が俺の本当の友達とは思えなかった。なぜなら友達は、自殺をしようと思うほどの苦しみを、俺に相談してくれなかったからだ。
「私も調べようと思ったんだけど、部活もあるし、色々とね……。でも、手助けはしたいの。だから、ここに連れてきたの」
その言葉を聞いて、俺は店内を見回してみた。紅根はなぜこの場所を選んだのだろうか。
そっちじゃない、と、紅根はガラス越しにさっき歩いてきた通路を指差した。
「香月君がハンバーガー屋さんでアルバイトしてるから」
香月君。中学時代に仲の良かった友達か。
「彼のアルバイトが終わるのは5時。従業員入口から、ここの前を通って、駐輪場へ行くの」
「なんで知ってるの?」
「土曜日、部活が終わったら、私、いつもここに来るの。そのとき、偶然、香月君がハンバーガー屋さんにいるのを知ってね」
俺は左手につけていた腕時計を見た。午後4時50分。
彼がここを通ったら教えてあげる、と紅根は言った。俺はそれに、ありがとう、と返しながらも、どれが香月君なのかと、頭の中で卒業アルバムの写真を思い出しながら、通路をずっと見ていた。
結局、香月君を見つけられないまま、5時になった。カフェには、少しずつ食欲をそそるにおいが充満していった。
紅根は俺と一緒に、前の通路を見ていた。
「で、俺に香月君を紹介してくれるんだよね」
「まさか」紅根は首を振った。「私が関係していたらおかしい気がする」
「なぜ」
「だって……誰も私たちが恋人同士だったとは知らないでしょ。私が行ったら、なんでお前がってなるでしょ、普通」
そうなのか。誰も二人の関係を知らないのか。
「香月君にはその関係を教えないの?」
「できたら秘密にしておきたいの。だから彼にも私たちのことを言わないでね」
俺は頷いたが、ではなぜ、俺には教えてくれたのかと疑問に思った。だが、俺はそのことを聞かなかった。俺が友達だったから、そして自殺の理由を探してくれているから、きっとそんなところなのだろう。
腕時計の長針が一つ、二つと動いていく。香月君はまだ現れない。
「まだかな」
「着替えもあるだろうし、もうちょっとかかるんじゃないかな」
俺は冷めはじめたコーヒーをもう一口飲んで、椅子に深く座った。そして香月君に何を聞こうか考えた。
5時5分になる。まだ来ない。
5時10分になる。まだ来ない。
「本当に来るのか?」
「分かんない。でも、普段通りなら、あ、来た」
紅根がそう言ったとき、高校の制服を着た男子が、俺たちの前を通った。髪は短く、校章のついた鞄を肩にかけている。横顔だけだが、俺が写真で見た香月君に似ている気がする。背もそれほど高くない。
俺は椅子から立ち上がると、カフェの入口へと向かった。後ろで紅根が何か言った気がするが、よく分からなかった。
「香月君」
俺が彼を呼びとめられたのは、本屋に入る前だった。彼は驚いたようにこちらを振り返った。
そして、どうしたのだろうという顔をした。もちろんそれは、呼びとめたのが見たこともない男だったからだろう。
「香月君ですか」俺は念のために聞いた。
「……はい。そうですけど」香月君は不安げに言った。
俺は自分が何者か説明した。自分の名前を言い、友達の名前も出した。そして紅根の名前も出した。そうしないと、俺がなぜ彼をここで捕まえることができたのか説明できないからだ。
香月君は少し驚いた様子だったがきちんと頷いた。
そして俺は、自殺の理由に心当たりがないか聞いた。
香月君は友達が自殺をしたという話を、なんとなく知っていたらしい。それは、噂から知ったと言った。
「メールとかはしていなかったの?」
「ああ、メール……。夏休み頃からしなくなったかな……」
「なんで?」
「いや、なんでって……。まぁ、バイトも忙しかったし、こっちも高校で友達できたりして。疎遠になったって言えばいいのかな。ああ、九月に入って、一回メールしたんだけど、返ってこなかったな」
どんなメールを送ったのか聞くと、香月君は少し首を捻った。
「うーん……。元気か、とかなんとか。そんな感じだったはず。夏休みにメールしなかったから」
俺は頷いた。じゃあ、何か思い当たるふしはないのかなと聞くと、彼は、ない、と短く言った。
「理由は分からないけど、正直驚いた。たぶん、あいつのことを知っているやつなら驚いたんじゃないかな」
「例えば誰?」
「え? 例えばって……。まぁ、同じクラスだったやつとか」
俺は、他に中学時代に仲良かった人っていないかと聞いてみた。
「うーん。分かんないなぁ。クラスが同じだったのは一年のときだけだし」
そのとき、俺は一つ疑問に思ったことを口にした。
「紅根さんとも同じクラスだったの?」
「紅根? ああ、紅根は三年間違うクラスだったよ。ただテニスコートとソフトボール部が練習してるグラウンドが隣同士だったから、たまに話していただけ」
……なるほど。じゃあ、これはどうだろう。
「紅根さんとあいつは二年生のとき、同じクラスだったのかな?」
「え? ああ……どうだろう。違った気がするけど」
もし、それが本当なら、紅根はいつ友達のことを知ったのだろうか。もしくは、いつ友達は紅根のことを知ったのだろうか。もちろん彼らは同じ学年だ。委員会や体育祭、他の行事でいくらでも知り合うことが可能だが……。
ちなみにだけど、と俺は言い、友達に彼女がいたかどうか知っているか、と少しだけ踏み込んだ質問をしてみた。紅根は関係を知られたくないだろうが、この質問なら紅根との関係はばれないだろう。
「……知らないけど。いなかったと思う」
「だよね。そんなそぶりなかったものな」
香月君は、うん、と頷き、少し目を伏せた。
「……でも、好きな人はいた、のかもしれない」
好きな人? 誰だ。いや、紅根か。
「分からない」
では、どうしてそう思ったのか。
香月君は頭を掻いて、うーんと唸った。
「なんとなく……。でも分かんないよ。実際、それが本当なのか」
「それはいつごろ?」
「えーっと。うーん……」香月君は鞄のベルトをタスキ掛けにした。「……中学の三学期ごろかなぁ」
となると、そのときが紅根と仲良くなり始めた頃かな……。
沈黙が数秒間、俺たちの間に生まれた。これ以上、聞くことはないだろうか。まぁ、土曜日のこの時間にここにくれば、また彼には会えるか。
俺はそう思って、礼を言い、香月君と別れた。香月君は本屋へと入っていった。
天気はまだ曇りだろうか。雨が降っていないといいのだが。
俺がカフェに戻ると、紅根は紅茶を新たに頼んでいた。
どうだった? という目線を俺に向けている。相変わらず鋭い目だが、少しセクシーでもある。もちろん女子高生のわりにはだが。
「香月君も知らないみたい」
ふーん、と紅根は深く息を吐いた。
「で、これからどうするつもり?」
君に話を聞くつもりだけど。俺がそう言うと、紅根は少し驚いた。
「これ以上、私に何を聞くの?」
俺は冷めきったコーヒーを見た。細く白い繊維が、ひとつ浮いていた。
「あいつと付き合い始めたのは高校に入る前。じゃあ、あいつと知り合ったのはいつ?」
「一年生のときの、なんていうっけ、4月か5月にみんなで宿泊施設に泊まるやつ」
「ああ、俺もやったよ」だが、その行事がなんというのか俺も思い出せなかった。
「で、みんなでカレー作ってるとき、うちのクラスの班の隣に彼がいたの」
「そこで出会ったと」
紅根はこくりと頷く。
じゃあ、いつ頃から仲良くなり始めたのか、そう聞くと、こちらも紅根はスムーズに答えてくれた。
「三年の三学期くらいかな」
どうして?
「どうしてって」紅根はフフっと笑った。「ばったり会ったから」
どこで?
「外で」
外?
「どこだったか忘れたけど、私が自転車漕いでいて、横断歩道で止まったら、隣にいたのが彼だったっていうだけ。そこで少し話をして、メルアドと電話番号聞いて」
それだけ、と言ったつもりか、紅根は少し間を置いて紅茶を飲んだ。
香月君が、好きな人ができたんじゃないかと考えていた時期と、二人が仲良くなった時期が合う間違いではなさそうだ。
「そういえば、あいつが本読むって知ってた?」
「本?」
「そう。小説」
紅根は首を振った。
「どんな小説?」
「うーん。恋愛とか、そういったやつかなぁ」
「恋愛?」紅根は少し身を乗り出した。「それってどういうの?」
「どういうのって……。読んでみればいい。タイトルは『はつ恋』『友情』『若きウェルテルの悩み』の三冊」
「ふーん……。連織くんは何でそのこと知っているの?」
俺は友達の家に行ったこと、そしてアルバムや、その他何か手掛かりになるものがないか探したことを説明した。
「CDいっぱいあったでしょ」
俺は頷いた。
「部屋も綺麗に片付いてるよね」
「ああ、綺麗だった。紅根は、あいつの部屋に入ったことあるの?」
「こっそりね。親がいないときにあがらせてもらったの」
俺はそのシーンを想像してみた。なかなか青春していたじゃないか。もしかしたら、あいつは意外にも童貞じゃなかったのかもしれない。では、なぜ、死にたくなったのだ。分からない。
「何か他に聞きたいことある?」
紅根はどこからかヘアゴムを取り出して、肩までしかない髪の毛を後ろでまとめ始めた。
「……蔵は見たことある?」
「蔵……」紅根は一度動かしていた手を止めた。
「蔵の中という意味」
「ないよ」そう言うと、手首をひねって、ゴムで髪の毛をまとめ終えた。「連織くんは中見たの?」
見てない、そう俺は答えた。
コーヒーの代金を払い、俺は紅根と別れた。そのとき雨はまだ降っていなかったが、家に着くころに降り始めた。
家に着くと、出来事を日記に書いた。
紅根の視線はセクシーだった。そう書き始め、紅根に連れられてカフェに行ったこと、そして香月君と出会ったことを書いた。それから、紅根と香月君から聞いたことをまとめた。
一番気になったことは、小説のことだった。紅根と付き合っていて、しかも仲が良かったのなら、恋愛絡みの自殺理由ではないはずだ。では、なぜこれら小説を読んだのだろうか。……いや、買っただけかもしれない。では、なぜ買ったのだろう。ただ単に読みたかったから? 読書を始めようと思ったから? もしそうだとしたのなら、俺は他の本を手に取る。この本は古いし、今話題になっているわけでもない。
俺は首を捻った。そして、机の上に置きっぱなしにしていた「若きウェルテルの悩み」に手を伸ばした。だが、続きを読む気はしない。
俺は仕方なくインターネットでそれについて調べることにした。
最初からこうしておけばよかったな。俺はそう思いながら、検索を開始した。
友達が読んでいた小説。『友情』『若きウェルテルの悩み』『はつ恋』。これを全部調べた結果、これら全てに関係しているのは恋愛だった。そしてもっというのなら失恋だ。そして、これらを調べているうちに、気になった言葉が出てきた。
「ウェルテル効果」
俺は、へぇ、と思いながらそう口に出してみた。
ウェルテル効果というのは、簡単にいうと、マスメディアの自殺報道に影響を受けて自殺が増加することだ。これは昔、この「若きウェルテルの悩み」に触発された若者たちが自殺したことからきているものらしい。つまり、これは、読むと死ぬ本とも言えるのではないだろうか。
では、友達もこの本に影響を受けて自殺をしたのだろうか。
それはないだろう。あいつにも悩みはあっただろうが、ウェルテルというやつほどの悩みではない気がする。第一、恋愛の方はうまくいっていたじゃないか。
さて、今週はどうしようか。と俺は月曜日の朝、教室で考えていた。日曜日は宿題とくつろぎに当てて、友達のことを考えなかった。考えないことが何か閃きに繋がるという俺の理論で、そうした。決して、飽きただとか、諦めたということではない。
とりあえず今日の放課後に、少し遠いところにある本屋に小説を持っていき、そこで買われたものかどうか確かめようか。素晴らしいことに、今日は快晴だ。土曜日の夜と日曜日とはえらい違いだ。
俺は席に着いていた紅根をちらりと見た。彼女はイヤフォンをつけて、机にタオルを敷いて、それに頭を乗せて寝ていた。部活というのはやはり大変なことらしい。
次に元彼女を見た。夏目冬子や他の友達と何か話している。どうやら元気にやっているようだ。
放課後、俺は駐輪場に止めてあった自転車に乗り、急いで家に帰った。家は自転車で二十分のところにある。学校の北に最寄り駅があり、学校の西に友達の家がある。そして俺の家は学校の北東にある。
家の周りには、何棟かマンションが建っている。数年前からそういった土地開発がされている。もともと団地があったし、交通の便もさほど悪くはない。
そして新たに今、建築工事がされている。今回は何階建てになるのか知らないが、母親曰く、二棟建つらしい。日照時間が減らなければいいけど、とも言っていた。
自室で制服から私服に着替え、メッセンジャーバッグに小説を入れた。それから一杯水を飲んでから、本屋へと向かった。
本屋はディスカウントストアと携帯ショップの間にあった。駅にある本屋より大きい。
俺は自転車を泊め、店内へと入った。自動ドアから中に入るとすぐそこにレジカウンターがあった。
レジカウンターには二人、お客が並んでいた。俺はそれを見て、雑誌コーナーで彼らがいなくなるのを待つことにした。
二人がいなくなると、俺はレジカウンターへと向かった。そして、大学生くらいの男性店員に、前と同じ要領で本がここで買われたかどうか知りたいと説明し、その二冊を渡した。店員の胸元には名前と『研修中』の三文字のついたプレートが付けてあった。
店員は、少々お待ちくださいと小走りで、店の奥へと消えた。レジには誰もいなくなるのだが大丈夫だろうか、と思いながらしばらく待っていると、彼が戻ってきた。
「お客様、申し訳ございません。こちらの本が、この書店で売られていたかどうかは分かりかねます」
「え、分からないんですか」俺は意外に思いながらそう聞いた。
「はい」
そうですか。ありがとうございます。そう、お礼を言って、俺は店外へと出た。店内との温度差のせいで、外がより寒く感じた。
……なぜ分からないのだろう。駅前にある本屋では分かったのに。
俺はもう一度駅前にある本屋に行ってみようと思い、自転車を漕いだ。
駅には高校生や、スーツを着たサラリーマン、買い物袋を提げた主婦がたくさんいた。俺は左手首に巻いていた腕時計を見た。もうすぐ5時15分になる。
俺はさっそく本屋と赴き、レジ近くで何かをしていた店員に話しかけた。
「どうされました?」
眼鏡をかけた50代くらいのふくよかなおばさんは、こちらに振り向いた。
「この本なのですが」俺は本を彼女に渡した。「ここで買われたかどうか知りたいのですが」
「ここで、ですか?」
はい、と俺は返事をした。
「レシートか何かお持ちですか?」
俺は首を横に振って、いいえ、と答えた。
「そうですか。では、すいませんが、ここで売られていたかどうか分かりません」
「え、でも、前に聞いたときは、ここで買われたものだと店員さんが言ってたのですが」
店員さんは、うーん誰だろう、そう小さく言って眉間に皺を寄せた。若い、女の店員さんですと俺が言うと「マスエちゃんかなぁ」と首を傾げた。
「うーん。とにかく、それは分からないんです。同じ本が買われたかもしれませんけど、それがここで買われた本なのかどうかは……。すみません」
店員さんに再度謝られると、俺の方こそ申し訳ないとなぜか思い、礼を言って、店を出た。
どうゆうことだろう。なぜマスエさんという人は、ここであの本が買われたか分かったのだろうか。では次になにをやろうか。簡単だ。マスエさんとやらに話を聞こう。
俺はどうしてこうも要領が悪いのだろうか。昨日、駅にある本屋に行ったときに、今度いつ、そのマスエさんとやらが来るのか聞いておけばよかったのだ。
俺はそう思いながら、その本屋から出た。
マスエさんというアルバイトの店員さんは、明日来るらしい。そう、決して今日ではなく。
時間を無駄に過ごしたなと思いながら、俺は駅前にある小さな公園に入った。空いていたベンチに座った途端に、黄色のビニールボールが足もとに転がってきた。俺はそれを手に取り、その持ち主であろう小学二、三年生の子供たちに投げて返した。
ありがとうございます、と子供たちは敬語を使って礼を言ってくれた。
どういたしまして。そう言うのが恥ずかしくて、俺は右手を軽くあげた。
疲れ切ったサラリーマンのように、俺は一度空を見上げ、それから、息を吐いた。
友達がいなくなったせいで、俺は昼食を一人で食べ、昼休みは宿題と予習をするはめになった。もちろん、それはそれでいいことなのだが、やはりどこかせつない。たまに上級生や他クラスの女子生徒たちが、廊下からこっちをちらりと見ているのが分かるが、どうも興味が沸かない。
もし友達がいたのなら、どの子がいいだとか、趣味じゃないだとか、また紅根の話や恋愛について話ができたかもしれないのに。いや、あいつのことだ。自分の恋愛は決して話さなかったかもしれない。一学期もそうだった。でも、話題になる可能性が全くなかったわけではないだろう。……もう可能性はゼロだが。
千切った綿のような雲が浮かんでいる空から、俺は視線を外した。いつの間にか子供たちはいなくなり、代わりに女子生徒が歩いていた。
彼女はこちらをちらりと見やった。自然と視線が合った。
とても可愛い。そして可愛らしい。加えて、謙虚に美しい。
俺のこの表現というのが、彼女に相応しい描写なのかは分からない。ただ俺は瞬時にそう思ったし、彼女が視線を外した後もその感想は揺るがなかった。
あの制服はどこの高校のものだろうか。
彼女は立ち止まらずに、公園から出て行った。
家に帰ると、俺は近所にある高校をインターネットで調べてみた。俺が通っている高校以外に、あの付近には高校が二校ある。
地図上に表示されている高校の名前を見ると「ああ、あそこね」とその場所を思い出した。
俺は両方のホームページを開いてみた。
すると、その一つの高校の制服が、あの公園で見た可愛い女子生徒が着ていたものだった。さらには、香月君の着ていた制服も載っていた。
……となると、香月君が彼女の名前を知っているかもしれないな。あんなに可愛いのだから学校内でも有名に違いない。
俺はそう思いながら、彼女に思いを馳せた。もちろん決して淡い気持ちではない。ただちょっとした性欲のはけ口になってくれないかなと思っただけだ。
もしこの気持ちを誰かが知ったら、俺のことを酷い男だと言うかもしれない。だが、俺は決して自分のことを酷い男だとは思わなかった。俺はマナーにもルールにも法にも反しない。そして道徳の定義は人によるし、常にあいまいだ。つまり俺を批判したいやつは道徳を理由にあげるのは無理だろう。だからもし、俺に一言言いたいのなら、酷いとか悪いとかではなく、羨ましいと言ってくれ。
俺はこの顔に産んでくれた両親に感謝をしながら、背伸びをした。
可愛いから始まり、かっこいいになった。きっと歳をとると素敵になるのだろう。
俺のことを友達の少ない普通の男だと思ったり、ブ男だと思ったりする人がいると思う。例えば、夏目冬子が俺のことを知らない誰かに話をするとしよう。おそらく、夏目冬子は俺の性格や状況から描写しはじめるだろう。ちょっとおかしな人でね、友達も少なくてクラスで孤立していてね、そうかと思ったらいきなり話しかけてきたり……、頭は別に悪くないんだけど、なんだか少し気持ち悪いの。
こうなったら、俺の顔を気にする人なんていないだろう。誰もかっこいいとは思わないはずだ。勝手に頭のなかで、普通の顔か不細工な顔をしている変な男なのだろう、性格もおかしいのだから顔もどこか捻くれているはずだ、と想像していると思う。だが、その想像を裏切り、俺の顔はかっこいいのだ。これは嘘ではない。小学生の頃からバレンタインデーのチョコレートをたくさん貰っていたし、告白されたこともある。そして中学に入ると、その数は増えた。一年生のときは、上級生から、二年生と三年生のときは一年生からチョコレートを貰い、告白された。
だが、これが示しているように、彼女たちは一度俺という人間を知ってしまうと、なぜか急に冷めてしまうようだ。俺にチョコレートをくれた人や告白してきた人が再び俺の前に現れることはなかった。それは俺が彼女たちに変人だと思われ、性格も悪いと思われたからかもしれない。だから、決してモテているわけではない。俺はただ顔がいい男なのだ。
それでも俺のことを好きだと言ってくれた人がいる。それは元彼女のあの子だ。彼女とは幼馴染で、昔からずっと遊んでいた。仲もいいし、お互い自然に好きになった。だから初めてキスしたのもあの子だし、初体験もあの子とだ。
では、なぜ別れたのか。まぁ、その話を思い出すのはやめておこう。
うまく寝られなかった夜は、こんなふうに過去のことを思い出しながら寝ている。それはきっと、寝付くには悪いことなのだろうが、俺はなぜかそうせずにはいられない。
俺は可愛い子を見つけたのに興奮したのか、昨晩、ベッドに入ってもうまく眠れなかった。仕方なく、自分がいかに昔から顔がいいのか思い出した。
初めてチョコレートを貰い、告白されたときはうれしかったものだが、次第にそれも薄れていった。経験と記憶というのは、たまにいらなくなってしまう。もちろん、そう思うのが贅沢だということは分かっている。
俺は自室のドア付近に設置した、けたたましく鳴る目覚まし時計を止めにベッドから出た。毛布を引きずりたいと思うくらい、寒い朝だった。
歯を磨き、顔を洗い、朝食を食べ、制服を着た。そして自転車を漕いで、学校へと向かった。赤信号で横断歩道に止まると、あの制服を着た女子生徒が前を通った。思わず顔を見て、あの子じゃないのを確認した。
学校に着いても、あの子のことを考えていた。昼休みも、教科書とノートを開いて、勉強をしている振りをしながら、色々と妄想をしていた。どこにデートに行こうか、どんな手をしているのだろうか。
だが放課後になると、俺は思考をしっかりと切り替えた。自分が思っていた以上に、すんなりとスイッチが切り替わるのを感じて、驚いたくらいだった。
俺は自転車を漕いで、本屋へと向かった。今日はマスエさんという、あの店員さんが来ているはずだ。
駅近くのスーパーに自転車をとめ、俺はさっそく本屋へと向かった。
レジカウンターにはあの、おばさん店員がいた。
俺は周りを見渡し、マスエさんを探した。コミックコーナーへ行き、その奥の角を曲がると、資格・検定のコーナーにマスエさんがいた。彼女は在庫を本棚の下にある引き出しに入れているようだった。
すみません、俺がそう言うと、彼女は屈んだままこちらを向き、俺を確認すると立ち上がった。今日は、髪を後ろで三つ編にしていた。
「はい。どうなさいましたか」
「あの、この前」と俺は言い、文庫本を鞄から取り出した。「これがここで買われたかどうか聞いたのですが」
「……ああ、はい」彼女は思い出したのか、軽く顔をあげた。
「あの、どうして、ここでこの本が買われたか分かったんですか? 一昨日、違う店員さんに聞いたら、分からないって言われたんですけど」
「ああ」彼女は少し笑った。
化粧は薄く地味だが、なかなか綺麗な人だなと俺は思った。
「それはですね。その文庫本のカバーで分かったんです」
カバーで?
「そのカバー、私がここに入ったばかりのときにやって、少し変なんです。左右対称じゃなくて、左に少しずれているんです。持ちにくくないですか?」
俺は本を開いて持ってみた。たしかに本を持つと、紙のカバーの左が少し浮く。俺はベッドで横になり、枕に押しつけて読んでいたから気にならなかったのかもしれない。
では、なぜ九月の初旬に買われたと分かったのだろうか。俺はそのことも聞いた。
「この仕事を始めたのが8月の終わり頃だったので、それは九月だと。あと、普通はカバーが変になったらやり直しているんですけど、その……高校生だったかな、お客さんはそれでいいですって……。だから覚えてるんです」
「その高校生、どんな感じでした?」
「……うーん。普通の高校生だと思いましたけど。ああ、でも少し急いでいるようだったかなぁ」
急いでいた? なぜ?
「他に何かありませんでしたか」
「うーん。いや、とくに何もなかったと思いますけど」
俺はそれを聞くと、礼を言って、文庫本コーナーへと移動した。そして、ぐるっと本屋内を一周してから、外へと出た。その間、俺はなぜ友達がカバーをかけなおして貰わなかったのか。そして、なぜ急いでいる様子だったのかを考えた。
俺はそのまま駅を出て、道路を横切り、公園へと入った。昨日と同じように小学生たちがそこで遊んでいたが、ベンチで数十分待っても、あの可愛い子は現れなかった。
気分は奇妙なものだった。友達のことで悩み、女の子のことで浮ついていた。何かがごまかされているような気がして、釈然としなかった。
俺は両手で目の前を暗くして、次のことを考えることにした。
まず友達のことに関して。これは正直に言うと、停滞しはじめた。次の一歩をどこに踏み出すべきか分からない。だが、謎はある。それを解いていくしかない。しかし、そこを解決していくには、やはりどこかを探らなければならない。どこだろう。それが分からない。あいつはなぜ急いでいる様子だったのだろう。急いでいたのなら、なぜカバーをかけてもらったのだ。……カバーをかけてもらっているときに何かが起きたのか? それは何だ。何が起きたのだ。それはきっと友達の予想していないことだろう。……電話? メール? では、それは誰からのものだ。いや、マスエさんは携帯電話を取り出したとは言っていなかった。急いでいるようだと言っただけだ。では、もしかして、誰かを見かけたのか? そうだとしたら、それは一体誰だ。……いやいや、待て。待てよ、俺。例えそうだとしても、それが自殺の理由と関係あるのか? 分からない。だが、謎は謎だ。
俺はいつの間にか止めていた息を吐き、空を見上げた。青い空が高いところにある。息を大きく吸い、また吐いた。
次に公園で目が合った可愛らしい女の子のことを考えた。一目惚れというのに出合ったことがない俺にはよく分からないが、彼女の外見に惹きつけられたのは間違いない。
そしてこちらの方は、対処方法が早く見つかった。
香月君にもう一度会おうじゃないか。
土曜日が待ち遠しくなるのは久しぶりだった。木曜日に、あと二日と思い、金曜日に明日が早く来ないかなと願った。
俺は午後4時少し前に「若きウェルテルの悩み」を読み終え(インターネットで内容は知っていたが、なんとなく読み終えることにした)、それから外着に着替えた。玄関を出ると、太陽はすでに真っ赤だった。
日が大分短くなったなあ、と思いながら俺はショッピングモールへと向かった。
ショッピングモールへと着いたのは、4時40分だった。
自転車を駐輪場にとめ、俺は本屋へと入った。そして、前に香月君と話した場所で彼を待つことにした。
そういえば、紅根はカフェにいるのだろうか。そう思ったが、確かめようとは思わなかった。今、彼女に会う必要もなく、話すこともない。いようがいまいが、どちらでもいい。
5時を過ぎると、俺は通路に出た。先週と同じように香月君がやってきた。制服姿で、鞄を持っていた。なぜ土曜日に彼は制服姿なのだろうか。
やあ、と俺は手を上げ、香月君を呼びとめた。
「ああ」香月君も手を上げた。「どうしたの? 何か分かったの?」
俺は、いいや今日は違う用事があってね、と言い笑った。
香月君はなんだろうと考えているようだった。
「単刀直入に聞くけど、香月君の学校に、とびきり可愛い子っていない?」
「え?」
「いや、まぁ、いきなり何の話だと思ってるかもしれないけど」首の後ろが急に痒くなり、俺は掻いた。「香月君が通っている高校にいる、かなり可愛い女の子のことが知りたいんだよね」
「それは何か、あいつのことに関係があるの?」
俺はなぜか笑ってしまった。そして、全く関係ないと伝えた。
「じゃあ、なんで……知りたいの?」
「うーん。まぁ、色々とね」
「残念だけど俺には分からないよ。可愛い子なんて」
いやいや。そんなわけない。あんなに可愛い子だったんだから。全校生徒が知っていてもおかしくない。他校に知れ渡っていてもおかしくない。雑誌に載っていてもおかしくない。それを同じ学校に通っている君が知らないなんて、そんなわけない。
「髪は黒くて、背中付近まであったかな。目はぱっちりしていて、制服は着崩してなくてちゃんと着ていた。スカートの長さは膝上で、腿はぎりぎり見えない。耳がちっちゃい。眉毛はちょっとだけ剃っているか、抜いているかで、描いてはいない。可愛くて、可愛らしくて、少し美人。駅前の公園を横切っていた。鞄は手に持っていて、ああ、靴は学校指定のものかな、黒のローファーだった。うーん、あとは鞄に何かぶら下げていたな。キーホルダーみたいな。銀色の、少し大きな蝶々みたいな。これで分かる?」
香月君は顔を顰めた。
「いや、分からないけど……どうしてそれを知りたいの?」
「うーん。でも、あいつには関係ないよ」
「じゃあ、何に関係が?」
俺の性的衝動に関係がある……とは言えないな。仕方ない。ここは一つ、嘘でも吐いておこうか。
「うん。まぁ、実はその子がお金を落としていったんだよね。俺はそれを拾って、返そうと思ったんだけど、見失ったんだ。結構大きな声で呼んだんだけど」
「へえ」
「……で、誰か分かるかな?」
香月君は首を横に振った。
「いや、分かんない。でも、それなら駅とか交番にお金届ければよかったんじゃない?」
「ああ」と俺は今気付いたように振る舞ってみた。「そうだね」
「なんなら俺が届けようか?」
……ん、どこに?
「ああ、もちろん高校に」
もちろん……高校に?
俺はその言葉を聞き、考えた。そして気になった。
もちろん高校に? いやいや、俺は君がどこかに落し物を届けてくれるとはちっとも思っていなかったよ。ましてや高校にだなんて、考えもしなかった。あと、『もちろん』ということは、何かを正した、軌道修正した、明確にしたってことだ。では、何を正した。それは考えだろう。そして、それはどんな考えだ?
香月君は、俺がどんな考えを持っていると思っていた?
俺は頭の中で「もちろん高校に」と呟いてみた。
このとき、香月君は俺の意識をずらし、何かを消そうとしたんだ。でも、一体それは何だ。
もちろん、高校。ということは、高校と同じカテゴリのものを消そうとした。
では高校の他に、落し物を届けるとしたのならどこがある。選択肢は、交番、駅。ああ、なるほど、そうか。
香月君は彼女に直接届けることができるんだ。
俺が「え? 彼女に届けられるの?」と、そう思ったと勘違いしたに違いない。
この考えはただの深読みか?
まぁ、いい。俺は俺を信じよう。
「どうした?」香月君は、俺を見上げた。
「いいや、大丈夫。やっぱり駅に届けに行くよ」
「そう。うん。それがいいよ」
ありがとう。俺はそう言って、彼から離れた。そして、本屋に入り、興味もない科学雑誌のあるコーナーへ行って、それから文庫本コーナーへと行き、漫画コーナーへと行ってから、ショッピングモールを出た。
香月君はこの後どこに行くのだろうか。駅、それとも家に帰るのか。
どちらにしても、もう一度公園に行ってみよう。なんとしてでも、俺は彼女のことが知りたい。
公園には人がいなかった。それもそうだ。もう周りは暗くなっている。
俺は空いていたベンチに座った。外灯と駅の明かりで、少しばかり公園内が見えた。美しい秋を感じさせてくれるのは葉が黄色になっているイチョウだけで、他の木の葉は茶色く枯れ、落ちていた。
俺は駅の反対側にある入口を見た。きっと、今日は誰も来ないだろう。
それでも、俺はここにいたいと思っていた。彼女が万が一現れることを考えると、どうしても動きたくなかった。
だが俺も帰らなければならない。三十分くらい待って、俺は公園を出た。
日曜日は休養日だ。英気養わなければ、何事もうまくいかない。宿題は土曜日の夜に全部終わらせた。だから今日はいつもより二時間余計に寝たい。
そう思っていたのだが、目覚まし時計をセットしていないのにも関わらず、俺はいつもの時間に目が覚めてしまった。家の中は日曜日そのもので、何の音もしていなかった。家族は予定通り、まだ夢の中だろう。
俺はベッドから出て、勉強机に座った。置き鏡に寝ぐせのついた髪が見えた。俺はそれを手櫛で整えようとしたが、うまくいかなかった。
息を吐く。机の上には、綺麗にカバーのかけられた文庫本が一冊置かれている。
仕方ない。目が覚めてしまったのだ。そして机には文庫本、しかも友達から借りたものがある。こうなったら全て、最後まで読み終えてしまおうじゃないか。
俺は『はつ恋』を手にとり、本をひろげ、しおりを外した。
俺の初恋は幸せだっただろうかと考えながら、本を閉じた。朝食も食べずに、俺は物語の終わりを見届けた。時計を見ると、短針が二を指していた。
俺は、背伸びをして、あくびをした。今さら眠気がやってきた。
だが、ここで寝るわけにはいかない。
俺は一階に下りて、俺のためにとってあった朝食を食べた。そして、シャワーを浴び、顔を軽く剃り、歯を磨いた。それからパジャマから普段着に着替えて、外に出た。もちろん行き先は公園だ。
先週の日曜日とは違い、天気は快晴だった。
公園に着くと、俺はベンチに座った。そこにはお年寄りが二人ベンチに腰掛けて話をしているだけで、子供はいなかった。
今日は日曜日だ。違う遊び場所に行けるのだろう。例えば遊園地や映画館、日帰り旅行だってできる。
だが、俺はここで彼女を待っている。そして、それはきっと徒労に終わる。なぜなら今日は日曜日。彼女もきっとどこかに出かけているに違いない。もしくは彼氏とデートをしているのかもしれない。
でも俺は、太陽が夕日になるまで待った。じっと公園の入り口、出口を見て、何人もの人を見送った。もちろん彼女は姿を現さなかった。
他人が俺を見れば、なぜそんなに彼女に執着しているのかと聞くだろう。俺はそれにこう答える。彼女を性的衝動のはけ口にしたいからだと。次に他人はこう聞く。彼女ではなければだめなのか、と。俺はそれにこう答える。ああ、彼女じゃないとダメだ。もちろん紅根でもいい。だが、紅根とはそういうことができない。それは勘であり、真実だ。永遠に、俺と彼女は一定の距離を保った知り合い同士だろう。では、あの可愛い子はどうだろうか。できると思う。彼女は自分自身を、自分の外見をかなり好きに違いない。自分が好きだからこそ、世界の全てを美しくしたいと思っているはずだ。それには何が必要だろう。外見のいい何かだ。それはファッション、街並み、友達、恋人、人生、全てだ。もちろんこの考えも勘だが、きっと真実だ。俺が彼女と出会うことができれば、彼女は俺を美しい世界の一部にしたいと思うだろう。
俺もその気持ちが少し分かる。美しいものが俺も好きだ。だが俺は、彼女たちのように世界が自分を中心に回っているとは思っていない。彼女たちの選択は吸収だが、俺たちの選択は接触なのだ。俺たちの世界は存在しているが、自分たちを中心には回っていない。メリーゴーラウンドの馬に乗らずに、歩いているのが俺たちだ。
月曜日、放課後になると俺は公園へと急いだ。香月君や可愛いあの子の通っている高校より、俺の通っている高校のほうが駅には近いが、それでも彼女が俺より遅く公園を通るという保証はない。
公園のベンチに座って、俺は息を整えた。少し浅くなっていた呼吸を止め、何度か深呼吸をした。
そのとき、なぜか頭の中にあることが浮かんできた。それは全く予期していなかったもので、いいアイデアが浮かんだとか、問題の答えが分かったとか、そういった瞬発力のあるものではなく、ボールがコロコロと転がってきたような感じだった。
あの可愛い子と香月君が知り合いだとしたら、友達とも知り合いということはないのだろうか。
俺の頭はそう言った。そして、それはなかなかいい考えだと思った。まだまだ道は残っていると、少しうれしくなった。すぐに細い道だと考え直したが、それでも淡い期待は残っていた。
俺はそのまま彼女が公園を通らないか待った。しかし、彼女は外灯が灯されても来なかった。
そして、同じようなことが火曜日、水曜日と続いた。違ったのは水曜日がいつもより3℃も寒くなったくらいだった。
しかし、木曜日は違った。
放課後、まだ太陽が黄色い頃、公園へと入った瞬間に、彼女が見えた。あのときと同じように、可愛く、可愛らしく、少し美人な彼女が公園の真ん中を歩いていた。
俺は思わず立ち止り、それを見た。黒い髪も、制服も、鞄も、彼女のものだった。
「あの、すみません」俺は彼女の前でそう声をかけた。
「はい」と上目遣いで、可愛い視線をこちらに向ける。
さぁ、俺は何を言うべきだ。どこから接点をつくる。
「もしかして、お金を拾ってくれた方ですか?」
彼女は真っすぐな視線を外さずにそう言った。なぜ彼女がそれを知っているのか、今さら言葉に出さなくてもいいだろう。
俺は、はい、と真実になりかけた嘘を吐いた。それから財布から千円を取り出し、その裏にコンビニのレシートを添えて一緒に渡した。
彼女はそれを触る時、一瞬、戸惑ったようだが拒否することなく受け取ってくれた。それはそうだ。そうでなくっちゃ。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
俺と彼女はそれだけ言って、別れた。
彼女の名前は、宵月美季。それが夜送られてきたメールで分かった。
レシートは、メモ帳として役に立つ。
デートというのは緊張するのに、帰りたくはならないものなのだと改めて思った。もしかしたら酔っぱらうというのは、こういう感覚なのかもしれない。
とにかく、俺と宵月実季はデートをした。場所は電車で三十分も離れたところだった。俺たちは映画を見て、ご飯を食べて、カラオケに行って、まぁ、それだけだったが、楽しい時間を過ごした。隣に可愛い子がいて、その子は少なからず俺に好意を持っているのだ。それを楽しめない男がいるとするならば、可哀そうな限りだ。
だがそんな中でも一つだけ、黒くて丸い疑問がぽんぽんと、俺の心の中を跳ねていた。
俺はこう彼女に尋ねたかった。
君は友達のことを知っているかい?
俺は十回以上、彼女にそう聞こうとした。だが、言葉には出せなかった。
それは一体なぜだろう。
俺は家に帰って、ベッドに寝転んだときにそう思った。
なぜ友達のことを聞けなかったのだろう。
親が夕飯だと言いに来るまで、俺はそのことを考えていた。だが、答えは出なかった。もし彼女に聞いたら、何かが壊れそうだな、そう感じたのを思い出しただけだった。
風呂からあがり、濡れた髪をタオルで拭いていると、宵月からメールが届いた。タイトルには、今日はどうもありがとう。本文には楽しかった、また遊ぼうね、顔文字、ハートマーク等々。そういった見慣れたものがたくさん並んでいた。
俺はそれに、顔文字も絵文字も使わずに返信した。
もちろん、友達のことは言わない。ただ、次のアポイントメントを取っただけだ。
だがそれは一体何のために?
仲良くなるためか、もしくは自殺の理由を見つけるためか。彼女との交友が大事か、それとも自殺の理由を探し当てるのが先決か。……俺はどっちを重要視しているのだろう。
椅子に座って、三冊の文庫本を眺めてみた。
なぜ友達はこの三冊を選んだのだろう。何かヒントになるものはないだろうか。
宵月からの返信メールが届いたよ、と、携帯が甲高い音を出して知らせてくれた。
彼女と今度会えるのは火曜日のようだ。場所は、駅前の公園がいいらしい。
俺は、それでいいよ、と返した。
次の月曜日、学校に行くと元彼女のことがとても気になった。それは罪悪感に似た何かのような気がしたが、彼女は元彼女であり、今の彼女ではない。そして次の恋人は彼女ではなく、きっと宵月だ。だから決して罪の意識なんてものは感じなくてもいい。だが、やはり、気持ちが重い。
授業と授業の合間では、紅根と目が合った。紅根は数秒俺を見て、視線を外した。何かあるのだろうか。
俺はこっそり携帯電話でメールを紅根に送った。紅根は、何か進展があったか、と聞いてきた。俺は紅根と目を合わせ、首を振った。
火曜日の放課後、駅前の公園のベンチに座っていると、宵月がゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。約束の時間を5分ほど過ぎていたが、気にはしなかった。俺は、彼女を待っている間、考え事をしていたのだ。彼女は脳みその隅っこに微かに存在していただけだった。
もちろん、今は違う。俺は彼女に触れたいし、抱きしめもしたい。五感全部を使って彼女の体を知りたい。
俺たちは公園から出て駅へと向かった。
「そういえばさ」と宵月は俺を見上げて言った。「連織くんって、本とか読む?」
「本。……普段は読まないなぁ。宵月さんは読むの?」
「うん。読むよ。あ、あと宵月って呼びにくくない? 実季でいいよ」
実季。あまり下の名前で呼びたくないが……。
「実季ね。分かった」
「私も、下の名前で呼んでもいい?」
……これはかなり嫌だったが、仕方なく俺は頷いた。
「ヒロくん」
宵月はそう言い、笑った。
俺はそれに笑顔で答えて、せめて報酬を貰おうかと彼女の腕を取り、それから手を取った。
宵月はそれに応えた。
「実季は、どんな本を読むの?」
「うーん。色々かな」
「例えば?」そう言ったときに、俺たちは例の本屋の前を通った。
「例えば……。うーん。ミステリだったり、純文学だったり」
「一番面白かったのは?」
「うーん」
その後、宵月は海外の小難しい名前を言った。もちろん覚えられない。そして、全く内容が想像できない。さらに読む気もないし、興味もない。
「へぇ。読んだことないなぁ」
「ヒロくんは何読んだことあるの?」
俺は彼女の言う「ヒロくん」に改めて嫌悪感を覚えたが、いつか慣れるかもしれないと、我慢した。
「うーん。ああ、最近、『友情』っていうのを読んだよ」
「へぇ」と宵月は目を大きくして言った。「結構、古いのが好きなんだねぇ」
「うーん。まぁね。でもやっぱり、俺に読書は合わなかったよ」
「そんなことないと思うなぁ。古いのが読めるなら、大丈夫だよ。今度、私がおすすめのやつを貸してあげるね」
宵月は手をつなぐのをやめ、俺の腕に手を絡ませてきた。彼女の柔らかそうな体が少し近づいた。彼女は服を着ているが、俺にとっては服を三分の一脱いでいるように感じた。あと少しか。それともここからが長いのか。
俺たちは駅を抜け、ファミリーレストランへと入った。ここにくるのは夏目冬子と来たとき以来だ。
店内に入ると窓際の席に案内された。しかし、俺はそこにあまり座りたくなかった。というより、今すぐ店から飛び出したかった。
案内された後ろの席に、夏目とその仲間たちがいたのだ。そして、その仲間の中にはもちろん元彼女もいる。
宵月が席に着くと、俺も仕方なくそこに座った。だが、心は明らかにざわめいていて、何をどうすれば、全てがうまくいくのか分からなかった。
「お店の人も気を利かせてくれればいいのにね」宵月は可愛い顔を俺に近づけ、小さく言った。彼女も俺の動揺を見てとったのだろう。もちろん元彼女がいることは知らないはずだ。制服を見て言ったのだ。
「そうだね。でも、いいよ」
幸い、俺の後ろに夏目たちがいる。彼女たちを視界にいれなくていいのは助かる。
ウェイトレスがお水とメニューを持ってくると、俺たちは何を頼むか考えた。
「うーん。チョコレートパフェとチーズケーキどっちがいいかなぁ」
その呟きに俺は、うーん、と応えた。正直、宵月が何を食べようがどうでもいい。夏目たちがいつから、ここにいて、いつ頃帰るのか、その方が気になる。
「カロリーも気になるけど、チーズケーキにしよ」そう言って宵月は視線をこちらに向けた「ヒロくんは?」
はっきりと感じたし、何年経ってもこのことは覚えていられる。空気が凍る、時が止まるというのはあり得る話なのだ。俺の後ろの席から一切の音が消え、周りの世界がうんとうるさくなった。
宵月はそれに気づいているのか、気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか、一人だけ動いていた。
「ねぇ」と宵月が返事を催促したところで、俺は、じゃあチョコレートパフェにするよ、と返事をした。
宵月が店員を呼ぶボタンを押したのと同時に、後ろの席で誰かが動いた。俺たちの席の横を、夏目が通った。続いて元彼女が通り、名前もよく思い出せない二人が通った。その一人は俺をちらりと見てから去った。
「……もしかして、何かあった?」
宵月は少し頭を下げ、上目遣いで俺を見た。
俺はただ首を振り、何も、と答えた。
宵月とのデートはなぜだか知らないが、クラスに広まっていた。俺はそのことを、前の席に座っている男子から教えてもらった。彼は、かなり可愛い子らしいじゃないか、どこで知り合ったんだよ、とニヤニヤと笑いながら聞いてきた。
俺はそれに、ちょっとそこらへんで、と返した。だが、なぜ皆はそのことを知っているのだろう、俺はそう疑問に思った。そして考えたのはファミリーレストランで出会ってしまったクラスメイトたちのことだった。彼女たち、もしくは彼女たちの誰かが噂を流したのだろうか。……でも、それはなぜ?
昼休みに紅根からメールが届いた。少し話がしたいというものだった。俺はそれに了解という旨のメールを送り、彼女の部活が始まる前に会話をすることにした。
放課後、俺が待ち合わせ場所の図書室に入ろうとしたところで、紅根がそこから出てきた。
「ごめん。あんまり時間とれそうにないから、歩きながらでいい?」紅根はドアを閉めながら言った。
「いいけど、部活が忙しいの?」
「うん。まぁ、そんなところ」
俺は彼女と並んで、廊下を歩いた。幸運にも、廊下には俺の知っている生徒はいなかった。
「で、どうしたの?」俺は紅根に聞いた。
「まぁ、簡単なことだけど、連織くんがデートした女の子って誰?」
誰?
「誰って、他校の子だけど」
「だから誰?」
紅根は歩きながらこちらを見た。彼女の目の奥には何があるのだろうか。
「知ってどうするの?」
「どうもしない。で、連織くんが初めて彼女を見たのはいつ?」
「……二週間前かな」
「どこで見たの?」
「公園で」
……紅根は何を考えているのだろうか。まさか嫉妬しているわけではあるまい。ああ、それは違う。彼女は俺にちっとも恋していない。
俺たちは校舎を出て、グラウンドへと向かった。その間、紅根は何も言わなかった。
「俺からの質問だけど、それが何か紅根にとって重要なの?」
「私にとって? もちろん、重要かな。でも、連織くんにとっても重要でしょ」
俺は、そうだね、と頷いた。
「でも、あの人にとっても重要だと思うんだけど」
「あの人?」
「そう。あの人」紅根は肩にかけていた鞄をかけなおした。
「それって香月君?」
「香月君? ……ああ、そうなの?」
そうなの? どういうことだ。
「でも、もっと重要な人がいるんじゃない?」
……いや、まさか。本当か?
「あいつに何か関係しているの?」俺はそう言いながら、友達と宵月の顔を同時に思い浮かべた。「どこに接点があるんだ? 香月君が接点なの?」
「連織くんって、私たちの卒業アルバム全部見た?」
卒業アルバム。友達の部屋で見たが……。たしか、四組で香月君の顔を確かめて……。それ以降は見ていないな。
「あなた宵月さんとデートしたんじゃないの?」
「そうだけど」
「彼女、私たちの中学時代の同級生だから」
そうなのか。同級生なのか。……だから何だ。それが何か友達の死に関係があるのか?
「私、彼女苦手なんだよね」
紅根はそう言うと、またこちらをちらりと見た。
「男子には分からないかもしれないけど」
すでに俺たちはソフトボール部の部室前に来ていた。誰が耳を立てているか分からない。
「分かった。じゃあ、また」
連絡する。俺はそう心の中で付け加え、手を振った。
紅根に背を向けると、ドアが閉まる音がした。
さぁ、友達と宵月との間には何かあったのだろうか。同級生ということは分かった。もしかしたら、何か接点があるかもしれない。では、どうやってそれが分かるのか。
湯船に肩まで浸かりながら、俺は考えた。そして、まず夏目冬子の名前が出てきた。
彼女に何か聞いてみようか。同じ中学だし、俺たちのデートを見ている。つまり、彼女、宵月が何者か知っているはずだ。もしかしたら、友達との関係も知っているのかもしれない。
だが、メールを返してはくれない気がする。ファミリーレストランのこともある。
では、と俺が次に思い浮かべたのは香月君だった。だが、この考えもすぐに消えた。
宵月のことを隠したがった男が、そうべらべらと何もかも話すわけがない。もし知っていたとしてもだ。そもそも、香月君と宵月の関係はどういったものなのだろうか。香月君は彼女のことを好きなのだろうか。……いやいや、それと彼女の存在を隠すことにどんな関係がある。学校内にライバルがたくさんいるだろう。そこに俺みたいなのが一人や二人増えたところで……。まさか、俺の容姿に恐れをなして。
「兄ちゃん、お風呂まだ終わらないの?」
俺はその声で、我にかえった。自惚れも大概にしておかないと、痛い目にあう。俺はそれを知っている。利用するのと自惚れるのは違う。
「ねぇ、寝てんの?」弟が浴室のドアをノックした。
「ああ、今出るから。あと少し待って」
「分かったー」
結局、俺は二つの考えを諦め、一番簡単な方法を取ることにした。俺は風呂から出ると、宵月に電話をした。しかし、宵月はちょっと忙しくなるから、一週間か二週間会えないと言った。
「一週間か二週間」俺はそう繰り返し「分かった。また連絡するね」と電話を切った。
それにしても、宵月がちょっと忙しくなるのはなぜだろう。しかも一週間か二週間だ。忙しくなる期間が決まっていないのはなぜだろうか。
俺は二週間を無駄に費やした。いや、もしかしたら有意義に過ごしたのかもしれない。何に縛られることもなく、俺は睡眠と怠惰な時間を思う存分楽しんだ。だが、それでは納得しない人が二人いた。
その一人は俺で、もう一人は紅根だ。
彼女はまだ何も分からないのかと十二月の一週を過ぎたところで催促をし始めた。友達は自殺をしたのだと噂を流し、その理由をつきとめてくれる誰かがいつか現れるのを待っていたくらい穏やかな人物だと思っていたが、どうやら違ったようだ。いや、でも俺のようなものが現れたからこそ焦っているのかもしれない。餌をおあずけされた犬のような状態なのかもしれない。
そして、その気持ちが俺にも少しある。ただ俺の場合は餌をおあずけされているのに加え、メス犬をおあずけされているのだ。
だが焦ったところでどうしようもない。時間が経つのを待つしかない。
そしてその日はやってくる。体も頭も鈍ったような気がしたが、宵月の声を聞くと、体の奥で何かが動いた。
彼女は火曜日に、また公園で会えないかと聞いてきた。俺はそれに二つ返事を返し、どうやって二つのことを成功させようかと考えた。
火曜日、俺は公園でマフラーを貰った。赤い手編みのものだった。そして、同じ毛糸を使った手袋を宵月はしていた。
「早めのクリスマスプレゼントだけど」と一週間後にあるイベントを待ち切れなかったかのよう彼女は言った。
「ありがとう」俺はそう言いながら、クリスマスの日をどうやって過ごすか考えた。名案というものは浮かばず、ただただ、脳裏にベッドがちらちらと見え隠れしているだけだった。
「……クリスマスの日空いてる?」
「うん」彼女は頷き、俺の考えを知ってか知らずか、もしくは彼女も何か期待をしているのか笑顔になった。
とりあえず俺は彼女の手を取り、両手で包んだ。
俺は二週間という長い期間中、自殺の理由と性欲というものを頭の中に入れておくことに疲れたらしい。俺は思うがままに彼女に告白し、待ってましたとばかりに宵月は俺の恋人になった。あとはクリスマスの日か、そのあたりに彼女と遊んで、それから友達のことを聞けばいい。きっと、紅根は遅いと怒るだろうが、仕方ないじゃないか。
「あ、そういえば」と俺はこの二週間の生活を思い出しながら言った。「この二週間なにやってたの?」
宵月は恥ずかしそうに笑った。
「実はマフラー編んでたの」
へぇ、そうなんだ。嬉しいなあ。
そんなことを俺が心から言うと思ったのなら、彼女には見る目がないねと言わざるを得ない。
もし俺が心までも彼女に恋していたとしたら、彼女の言葉を鵜呑みにし、心踊り、全てを受け入れただろう。だが、俺は宵月の外見と体にしか興味がない。そして俺はどうしても、香月君のことが引っかかっている。
もしかして、君、この二週間を香月君と別れるために費やしたんじゃないの?
そう言いたくて仕方がない。
「実はさ……」
「なに?」宵月が可愛く首を傾げた。
「俺、あの、二週間前さ、次いつ会えるかなって電話したじゃん……」
宵月がうん、うんと頷く。
「実はあの前に彼女と別れたんだ」
「え?」
「ごめん。なんか……。元々うまくいってなかったし……。あのファミレスで会ったやつらは、元カノの友達でさ。なんか、ごめん。騙していたみたいで。それに浮気相手みたいにさせてしまって」
「ううん。大丈夫」今度は首を横に振った。
さぁ、君も暴露してくれるか。
「気にしないで。昔のことは忘れて、前見よ、前」
言わないか……。
俺たちはその後、近くのコーヒーショップに寄り、そのままそこで別れた。結局、宵月と香月君との関係を確定することはできなかった。
だが、別に俺がその関係を暴く必要ないわけで。しかし俺のせいで、もしくは宵月のせいで、憤り、焦り、不安で、絶望に似た感情を持っている人間がいることには間違いない。
その夜、俺は紅根から電話を貰った。机の上で、クリスマスのために買った情報誌をめくっているときだった。
「もしもし」
「もしもし」落ち着いた声の中に、どこか揚がっている節があった。「連織くん?」
「もちろんそうだよ。どうしたの?」
「あのさ、突然、香月君が、連織くんのこと聞いてきたんだけど」
「へぇ。何て?」
「連織くんに彼女がいるのかどうかって」
ほう。
「なんて答えたの?」
「いないと思うけど、宵月さんとデートしたっていう噂があるって言った」
俺は声に出して笑った。
「どうしたの?」
「いいや。それで、香月君はどんな様子だった?」
「電話で話しただけだからよく分からないけど、ちょっと間が開いて『へぇ』って言って……。それで終わり。すぐに電話切られた」
ショックを受けている彼の姿が容易に想像できる。
「なるほど。可哀そうにな」俺は本当にそう思って言った。
「宵月さんと彼って付き合ってたの?」
「さぁ。でも、俺はそう思うけどね」
「ふーん。……で、進展は?」
「宵月さんは俺の彼女だよ」
「……え? ああ、そうなの?」
「そうだよ」
「つまり、香月君から彼女を奪ったの?」
「人聞きが悪いな。俺の予想だけど、俺が奪ったんじゃなくて、宵月が香月くんを捨てたんだよ」
部屋のガラス戸が揺れた。風がひどいようだ。
「ふーん。まぁ、そうかもね。というか、私の言った進展って、理由の方なんだけど」
「そっちはクリスマス終わりに聞くから、もう少し待ってくれよ」
「なんで? 彼女なんでしょ? ちゃちゃっと聞いてよ」
今それを聞いて、変な空気になったらどうしてくれるんだよ。君が代わりに俺と寝てくれるのか、とはさすがに言えないが「まぁ、待ってくれよ。俺にも他にやりたいことがあるんだよ」とだけ伝えた。
「……なるほどね。まぁ、変な風邪にかからないようにね。おやすみ」
「おやすみ」
電話を切ると、俺は変にうれしくなった。こんな会話をしたのは、どのくらいぶりだろうか。
カーテンを閉めるため、窓に近づくと、冷えた空気が肌の数センチ先にあるのを感じた。空には雲がなかったが、いつ雪が降ってもおかしくなさそうな寒さだった。
「自殺した同級生のこと知ってる?」
俺がそう宵月に聞いたのは、十二月三十日のことだった。両親ともに年末年始とお盆は忙しいという彼女の家には、俺と宵月の二人しかいなかった。
ベッドにもたれ、こたつに並んで入っている俺たちは、外から見えればとても中の良いカップルに見えるだろう。だが、彼女にとって俺は動くアクセサリーであり、俺にとって彼女は外見のいい女体でしかなかった。もちろんお互いにそんな本音を出すことはない。いや、彼女が俺をアクセサリーだと思っているというのは、俺の想像でしかない。もしかしたら、本当に俺を好きなのかもしれない。そして彼女も、俺が本当に彼女を好きだと思っているのかもしれない。もし、俺の想像が本当だとして、それをお互いに声に出したらどうなるだろうか。……なんとなくだが、一気に白けた関係になる気がする。台本を読みながら芝居をするのは、誰にとっても面白くないだろう。
宵月は、一瞬、目を丸くしてこちらを見た。そして、テーブルに置かれた紅茶をじっと見つめた。
俺は、彼女の言葉を待った。部屋の空気は少し変わったが、時が止まったかのような印象はない。
「うん……知ってる」宵月は優しく言った。
知ってるか。なるほど。君とあいつは繋がっているのか。それは、ただの同級生としてか、それとももっと深い関係があるのか。
俺は性的衝動とは違う興奮を覚えていた。
「この前、あれ見てさ」俺は本棚にある卒業アルバムを指差した。「一緒の中学だったんだなって」
「うん」
「俺たち友達だったんだ。あいつがいなくなってから、高校がつまらなくなったよ。……なんであいつ死んだのかな」
「分からない」宵月は首を振った。「私たち、そこそこ仲は良かったんだよ。でも、高校に入って、夏休みが終わったらメールの返事が返ってこなくなったの」
たしか香月君も同じようなことを言っていたな。
「あいつと仲良かったんだ。意外だな」
「どうして?」
「だって、あいつ、仲のいい女の子いそうになかったから」
「うん。あんまりいなかったかも。私くらいだったかなあ……。一年の頃、一緒でね。日直が一緒だったり、班が一緒だったり、優しくしてくれたから」
一年の頃、一緒だったか。香月君と同じか。
「みんなの前ではあんまり話さなかったけど、結構メールとかしてたんだよ」
「今もまだメール残ってるの?」
宵月は首を振った。
「携帯変えたから、もうないの」
俺は部屋にある大きな二つの本棚を見た。ハードカバーとたくさんの文庫本がそこに収まっていた。
「あ、そうだ」宵月は何かを思い出したかのように、こたつから出た。「小説貸してあげる」
「うん」と俺は言ったが、読みたくはなかった。文章は日記だけで十分だ。
宵月は本棚の前にいくと、膝立ちになった。今日は、彼女が好むスカートではなく、ジーンズを履いていた。
「読みやすいので頼むよ」
「うん。でも、ヒロは難しいのでも読めるよ。頭良いし」
ヒロくんから、ヒロに格上げかい? それとも君の支配下に登録されたのかな。
「あいつにも何か本は薦めたの?」
少しだけ部屋から音が消えた。外の世界からもタイミングよく何も聞こえない。宵月は手を動かしながら、何かを考えているように見えた。
「ううん。……あまり興味なさそうだったし、何も」
確かに友達は本に興味がなさそうだった。部屋にも新しい三冊の文庫本と教科書以外に本らしきものはなかった。友達はどうやって、あの三冊の小説の情報を得たのだろう。
「ヒロはミステリ小説好き?」
「ああ、たぶん。でも読んだことないや」
「じゃあ、短編集がいいかな」
俺は部屋の時計を見た。午後2時を少し過ぎたところだった。
宵月が本を持って戻ってくると、俺はそれを受け取り、パラパラとめくった。文庫本をいくらめくっても出てくるのは文字ばかりだった。つまり、俺は他のことがしたいのだ。
部屋はほんのりと温かい。こたつの熱気が外に漏れているのか、人間が二人いるとこんなにも温かいのか。
「ちょっと横になっていい」
「えー」
「昼寝がしたいんだよ。ただそれだけ」
じゃあいいよと、宵月は俺の肩を叩いた。
俺は彼女のベッドに潜り、目を閉じた。だが本当は眠くなんてなかった。ただ友達のことを考えたかった。
宵月と友達の関係が少しだけ分かったが、それが何に繋がるのか、または何にも繋がらないのか分からない。香月君と宵月、そして友達は三角関係にはならない。なぜなら紅根がいるからだ。では、四角関係にはなるだろうか。なったら、それが何なのだ。四人の間に何かトラブルがあったとは思えない。紅根は宵月のことがあまり好きではないようだったが、憎いと思うほど深い付き合いではないような気がする。
トラブルといえば、夏休みが終わってからのことがあったな。香月君と宵月はそのあたりから友達からメールが返ってこなくなったと言っていた。俺はどうだろうか。そんなことはない。彼が死ぬまで、メールは届き、返ってきた。では、友達が意図的に宵月と香月君との関係を絶ったのだろうか。……何のために? そしてなぜ?
俺の左腕に柔らかいものが当たった。同時に違う空気が布団の中に入ってきた。
「私も眠くなってきた」
宵月はそういって、俺に体を押し付けた。人がゆっくりと考え事をしているときには、とても邪魔な体だ。
俺は彼女を抱き寄せ、横向きになった。彼女も横向きになり、俺の胸に背中を当てた。俺は手をお腹にまわした。
ふと、元彼女のことが頭をよぎった。彼女はいま何をしているのだろうか。誰かとデートでもしているのだろうか。いや、まさか。おそらく夏目冬子たちと遊んでいるのではないだろうか。きっとそうに違いない。黒い毛先がくるりと天然パーマで、猫のような彼女。
そんなことを考えていると、自然に眠気が襲ってきた。宵月の柔らかい匂いと共に、俺は夢の中へと吸い込まれていった。
こたつのテーブルの上で何か鳴っている。ああ、これは携帯電話の呼び出し音だ。俺のか、それとも宵月のものか。
窓の外が薄暗くなっている。今は四時か、四時半くらいだろうか。
俺は宵月を起こさないように、ゆっくりとベッドから降りた。そして、こたつテーブルの上で鳴っている俺の携帯電話をとった。どうやら紅根からの電話のようだ。
とるべきか、とらざるべきか。そんなことを考えたのは「もしもし」と言ったあとだった。
「あ、寝てた?」
紅根の声はいつものように聞きやすい。
「ああ……でも大丈夫」
「進展は?」
「進……」ああ、理由のことか。「あったといえばあったな。でも、何も分からないままだよ。本と……」
「本と?」
「いや、また後で電話する」
俺はちらりと宵月を見た。寝ているようだが、あれこれ聞かれては困る。
「電話って何時頃?」
こいつも随分と焦っているんだな。なぜだ?
「……なぁ、何をそんなに焦ってるんだ?」
「焦ってるって?」
「進展のことさ」俺はテーブルに肘をつけ、宵月の寝顔を見ながら小声で言った。「こう言っちゃ何だが、いくら早く突きとめても、誰が助かるわけでもない。俺たちはもう……助けられない」
「そうでもないと思う」紅根はきっぱりと言った。「少なくとも私は助かる。彼の死の理由を知れば、私は……」
紅根の声が少し震えた気がした。
「私は?」
「知りたいの。早く。色褪せさせたくないの、彼を」
だが、時間は何もかも色褪せさせるじゃないか。
「強烈な記憶として残したいの」紅根は続けた。
「強烈な?」
「もっと、激しくて、色鮮やかで、死ぬまでずっと頭の片隅に残って」
そんなことをすれば、苦しむのは君だろう。どうした、紅根。
「連織君」
「なに?」
「私、彼を本当に愛してるの。彼がどんなふうになっても愛してるの」
愛してる。高校生の使っていい言葉だろうか。俺にはよく分からない。他の言葉に変えられるような気がしてならない。
「だから」
「だから?」
「だから、早く! だから早く、彼の全てを教えてよ!」
紅根はそう叫んで、電話を切った。俺はというと耳から携帯電話を離さずに、宵月を見ていた。
紅根の叫びを聞いても、俺は恐ろしくならなかった。驚いたといえば、驚いたが、心臓を掴まれはしなかった。ただ、誰もが何かを抱えているのだなと、少し悲しくなった。そして、それが好意を持っている人だというのが、俺の義務感を揺さぶった。
俺はベッドに移動して、宵月の頭を撫でた。
「実季。聞きたいことがある」宵月に反応はない。「なぁ、実季。お願いだ。俺の友達を助けてくれ。起きてるんだろ?」
宵月が薄く目を開けた。瞬きは一度しかしなかった。
「うーん。どうしたの?」
彼女には、嫌なところをさらけ出してもらわなければならない。俺に、それをさせることができるだろうか。
「紅根って知ってるか?」
「紅根? ……紅根さん?」
「そう。中学の頃同級生だったろ。体が少し大きい」
「あー、うん。体は少しじゃなくて、かなり大きかったけど。それがどうしたの?」
俺はどこから、どう話を繋げればいいか考えた。だが、いい順序が浮かばない。
「あいつと、死んだあいつと紅根は仲良かった?」
「えー、ううん。よく知らない。紅根さんの話したことないかも」
「じゃあ、あいつが香月君と仲が良かったの知ってる?」
少し間が出来た。だが宵月は目線を外さずに俺を見ていた。
「……うーん、知らないなぁ」
香月君が誰なのか聞かないということは、君はやっぱり香月君を知っているわけだ。
「香月君と君はどういう関係だったの?」
宵月の瞳が少し大きくなった。
「……どういうこと?」
「そのままの意味だよ」
「紅根さんから聞いたの?」
「何を?」
「……何かを」
俺は首を振った。
「正直に教えてくれ。それで君を嫌いになったりしない。俺は君を愛している。俺は何があっても、君と別れたくない」
もちろん嘘だが。
「愛してるって」と宵月は軽く笑った。
そして、起き上がり、ベッドの上に座った。
「逆に、教えて。私の何を知っているの?」
「君はとても可愛い。そして可愛らしい。加えて、美人だ。趣味が読書で、俺とは違う高校に通っている。あいつとわりと仲が良かった。……それだけだよ」
「じゃあ、なんでそこに、香月君が出てくるの?」
「俺は香月君を知っている。そして、俺は彼に君のことを聞いたことがある。通っている高校に、とても可愛い。そして可愛らしい。美人な女の子がいないかって。でも、彼は教えてくれなかった。知らないと嘘を吐いただけだった。でも、それは不自然な嘘だった。そして、君は俺に『お金を拾ってくれた方ですか?』と聞いてきた。俺はそのことを香月君にしか話していない」
「それで?」
「そこで俺は彼と君が知り合いだと確信した。そして、彼が君のことを好きなんだろうなとも思った。……でも、どんな関係だったかは知らない。だから教えて欲しい」
「ただの友達だけど」
「本当に?」
「本当に」
俺はまだ踏み込まなければならないのだろうか。できるなら、何も起きて欲しくないが。
「じゃあ、俺がこのことを香月君に聞いても問題ないわけだね」
「……何? 何か怒ってる?」
俺はちっとも怒っていない。言葉に感情がこもっているのは君の方だろう。
「いや、ただ俺は知りたい」
「何で?」
「あいつからメールの返信が返ってこなくなったのは、夏休みが終わった頃。そのことを俺は、香月君と君から聞いた」
「何? 何なの?」
彼女から怒気を感じる。俺はそういったものが苦手だ。
「つまり、単刀直入に言うと」ああ、くそ、言うしかないのか。「なぜあいつが自殺をしたのか、俺はその理由を調べている。香月君と君が、それに関係しているんじゃないかと思っている」
宵月は数十秒、何も言わずにこちらを見ていた。
「……もしかして、そのためにここにいるの?」
俺は大きく首を振った。
「それは一番の理由じゃない。それが理由だったら、とっくの昔に聞いてる。第一、俺はそんなことで、君と付き合ったりしない。君が好きだから告白した」
「……じゃあ」宵月は少し座る場所をずらした。「なんで今、それを聞いてきたの?」
「……友達を助けてほしいから」
「何? 嫌な夢でも見た?」俺の膝に手を置きながら宵月は言った。
「違う。助けて欲しいのは紅根だ」
「紅根さん?」
「そう」
「なんで?」
言うしかないのか? でもそれは俺のことではない。紅根のことだ。まだ待とう。
「紅根が助けを求めているからだ」
「紅根さんと彼、何か関係があるの?」
そうなるよな。やはり言うしかないのか。
「……あいつと紅根は、恋人同士だった」
宵月はしっかりと俺の目を見ている。俺もその可愛らしい目に吸い込まれそうになりながら、視線を合わせ続けた。俺は、嘘はついていない。そう目で伝えた。
「……それ、本当に?」
「ああ、本当だ」
「彼がそう言ってたの?」
「いや、あいつからは何も聞いてない。紅根から聞いたんだ」
「……へぇ」
宵月は俺の膝に置いていた手を、腿に持っていった。
「彼と紅根さんが恋人……、ねぇ、それ本当?」
「ああ、俺はそう聞いている」
「それ、本当に本当? 証拠は?」
証拠……。ああ。
「あいつが死んでから、俺、あいつの家に行ったんだけどさ。部屋を見せてもらったんだよ。紅根も付き合ってた頃に、部屋に行ったことあるみたいで、CDがたくさんあること知ってた。部屋が綺麗に片付いていることもね」
宵月は何も答えなかった。ただ視線をどこかへ向けて何かを考えているようだった。
俺は唾を飲んだ。宵月の声が穏やかなものになるよう願った。
「で、香月君と実季の関係だけど」
「……付き合ってたよ」実季は体を俺に寄せた。
「どのくらい付き合ってたの?」
「……うーん」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない。たったの四ヶ月間だよ」
「いつ別れたの?」
「えー? うーん。十二月入った頃。あー、うーん。……ごめん。私もヒロと同じくらいのときに彼と別れたの」
「俺と同じ頃?」
何の話だ?
「うん。私たちが付き合う少し前の話」
ああ、ああ、確かに言ったな。彼女と別れたという作り話を。しかも、宵月に『私も彼氏と別れたの』と言わせたいがだけのために。
「ああ、すっかり忘れてたよ。……実季に『前見よう』って言われたからな」
宵月は恥ずかしそうに笑って、俺の腕を叩いた。
「でも、彼と紅根さんが付き合っていたって本当?」
「ああ、本当だよ」
「そう。……意外だな」
「まあね」俺はその言葉に同意した。
それから俺は一晩だけ宵月の家に泊まり、大晦日の昼前に家へと戻った。そして、背伸びをしながら部屋の椅子に座り、紅根に経過を報告しようと携帯電話を手に取った。紅根は大丈夫だろうか、そう一息つくと、勉強机に置いてある文庫本が目に入った。
その瞬間、背筋が凍った。そして、心臓が鳴り始め、血が射精するかのように頭に昇っていった。
これは俺の想像だ。これは俺の妄想だ。そんなこと現実にあってたまるものか。
だが、もし俺の考えが事実なら……一体誰が、俺の友達に、こんな小説を教えたのだ!
指定のカフェに着いたのは、2時ちょうどだった。ケーキ屋に併設してあるメルヘンな店で、二階にいくつかテーブル席があった。紅根に似合っているかと言われれば、正直、首をかしげる。意外にも女の子な趣味をしていて、部屋はヌイグルミで埋まっているのかもしれない。
店は大晦日ということもあってか、16時には閉めるらしい。貼り紙には1月5日まで休むとあった。
俺は恐る恐る店に入り、先に待っているという紅根に遅れたことを謝ってから、席に着いた。
「で、進展は?」
開口一番、紅根はそう言った。
「進展はあった。でも、まだ理由は分かっていない」
「それじゃ、何が分かったの?」
紅根はコーヒーカップを持った。紅茶ではなく、コーヒーを飲むのかと俺は驚いた。
「香月君と宵月の関係、そして宵月とあいつの関係が分かった」
「聞かせて」
「ダメだ」
「え?」
「まだ話せない」
「なんで?」紅根は顔を歪めた「なんでよ」
「何もかも正直に話したいから」
ウェイトレスがやってきて、俺はコーヒーをオーダーした。ケーキセットをおすすめされたが断った。
紅根はそれを見つめ、俺たちは彼女がテーブルを離れるのを待った。
「紅根」
「何?」
「俺は君が好きだ。あいつがいなくなってから、君は俺が会話をできる人物の一人になった。だから、紅根には何もかも正直に話したい」
「うん。じゃあ」紅根は手を組んでテーブルの上に出した。「話して」
俺は頷いた。
「だが、紅根。君は俺に隠し事をしているだろう?」
「してないよ」
そんなことはない。紅根、君が本当のことを話してくれないと、俺の妄想が現実になることはない。いや、そっちの方がいいのかもしれないが、そうなると俺はまた行き止まりを目の前にしてしまう。
「紅根が本当のことを話してくれないと、進展しない。俺は昼前に、ある仮説を立てた。その仮説に君は出てこない。では、なぜ君がここにいるのか。それが謎だ」
「どういうこと?」
「君はあいつの何だ、どんな関係だ」
「恋人だけど」
「……そうか。じゃあ、この話はおしまいだ。俺の仮説は成り立たない。次の進展があるまで待ってくれ」
ウェイトレスがコーヒーと勘定書を持ってきた。俺はコーヒーを引きよせ、匂いをすっと嗅いだ。
「ねぇ、早く教えてよ」
「何を」
「宵月さんとあの人の関係を」
「……紅根は小説を読む?」
俺はコーヒーを飲んだ。あまり美味しくない。風味よりも水分を先に感じる。
「そんなことどうでもいいでしょ」
「いや、重要なんだ。君は小説を読むか、読まないのか」
「読まない。だから、早く」
「君は宵月と香月君の関係を知らなかった。そして宵月とあいつの関係も知らない。そして小説も読まない。うん。君が白だということは分かっている。だからこそ君がなぜここにいるのか、それがどうしても分からない。君がいなくなれば、俺はもっと自然に話せるんだ」
「ちっとも分からない」紅根の声が少し大きくなった。「早く教えてよ」
俺は息を浅く吸い、そして吐いた。そのあとに今度は息を大きく吸い、それを吐いた。
「あいつは純粋だった。だけど君はそれを無理に繕っている。あいつに君はふさわしくない」
こんなことを紅根に言っていいのだろうか。あまりにも厳しく、酷い言葉ではないだろうか。だが、俺の考えが正しいのなら、そういうことしかできない。
「なぁ、紅根、君は本当にあいつと付き合っていたのか?」窓の外を見た。車が何台も通り過ぎていく。「俺の想像、妄想では、君は全くもっての部外者だ。君は香月君よりも、宵月よりも、俺よりも、何なら夏目冬子よりも、あいつに関係していない」
紅根の顔は真っ白になっていた。目や鼻、口、それらがそこにあるはずなのに、無表情のせいでうまく脳がそれらを形作れないでいる。
「君はあいつの何だ。恋人じゃないんだろう」
紅根は何も言わず、俺を、もしくは俺の後頭部を真っすぐ見ている。お面のような彼女の顔は俺に恐怖を覚えさせる。ここにいるのが俺たち二人だけなら、俺はすぐさま逃げ出す準備をしていただろう。
「私は彼の恋人」紅根は口だけを動かした。「それだけは誰にも譲らない」
なんて強情なやつだ。いや、俺の考えが間違えているのか?
……まぁ、いい。では、俺も嘘を吐いてみようじゃないか。俺たちはそれが好きだろう。
「あいつは一度も、偽の彼女を作ったことはなかったぞ。紅根と違って、純粋だったはずだ。純粋過ぎて、傷つきやすかったのかもしれない。俺や紅根のように、どこか狂っていれば、死にはしなかっただろうな」
紅根はまだこちらを真っすぐ見ている。瞬きをしている様子はない。
「あいつは、宵月と付き合っていた」
「え?」紅根の目が大きく開いた「今、何て?」
脳が彼女のパーツを少しずつ捉え始めた。
「だから、嘘を吐かないでくれ。君があいつの彼女だなんて言わないでくれ。あいつの彼女は宵月だった。紅根という女の子ではなかった」
紅根の背中がソファの背もたれについた。
「それ、さ」
「紅根。本当のことを教えてくれ。何もかも、全てだ。全てを話してくれたら、俺も全てを話す。そして、その結果、残る謎はひとつになる。それを解明したら、俺の友達はお前に関係してくる」そしてお前の望んでいる通り、あいつは、「お前の人生から永遠に消えないだろう。強烈な印象を残して」
「……分かった」紅根はポシェットからハンカチを取り出し、涙を拭いて言った。「私は……彼の恋人じゃないの。友達でもなかった」
数秒後、彼女の目からは、涙が流れ始めた。
嘘を吐いてごめん、紅根。あいつは宵月とも、誰とも付き合っちゃいない。あいつはただ……。
「私はただ、彼のことが好きだっただけ」
俺は頷いた。
でも、紅根はなぜ友達の部屋のことを知っていたのか。なぜ、嘘をついたのか。
「私、ストーカーだったのかも」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「彼のことが好きすぎて、何回も部屋覗いたことあるの。一度もばれたことはないけれど」
俺は頷いた。驚いたが、それを表に出さないように注意した。
「だから、私、彼のことをほとんど知っているんだよ。生年月日、血液型、小学校の頃の写真も盗み見たことある。でも宵月さんと付き合っていたなんて……。信じられないなあ。とても信じられない」
いつから、あいつのことが好きだったのだろうか。
「彼を好きになったのは……。ほら、一年の頃、学校の行事で宿泊施設に行って、そして、班が隣だったっていうやつ。出会いは本当のことを言ったんだよ。いや、出会いっていうか一目惚れのときかな」
なるほどね。俺はそう思い、コーヒーをもう一口飲んだ。なんだか、前よりも美味しくなっている気がした。
「でも、近づけなかったなあ……。近づけば少しは変わったのかなあ」紅根の目にまた涙が溜まり始めた。「でも、もう何を思っても遅いよね」
ああ、もう遅い。俺たちはあいつに対して、もう何もできない。線香なんて、自分のためにしかならない。俺たち、生きている人間だけに許された、贅沢な慰めの行為だ。
「私、本当に狂ってるの」
お前だけじゃないさ。
「連織君は、人が死ぬところって見たことある?」
俺は首を振った。
「連織君は、蔵の中見てないって言ってたっけ」
……まさか。
「私、彼が死んでいるところを見たの。あの人、泣いてた。目から涙をこぼして、泣いていたの。……怖かった。でも、それ以上に、とてもうれしかった。家族よりも、世界中の誰よりも早く共有できた、私たちだけの秘密なの。だから、誰にも知らせなかった。救急車も警察も呼ばなかった」
紅根はどこか狂っている。
「たぶん、彼が自殺したと本当に知っているのは、私とあなたと、彼の両親と、数人の親戚と、先生だけよ。でもね」
紅根の笑顔は美しかった。頭の上に、光る輪があってもおかしくなかった。
「彼の亡骸を一番初めに見たのは、私なの。それがとってもうれしくてね」紅根は、ふふふと楽しそうに笑った。「でも、同時に悲しくもなった。分かる?」
俺は正直に、首を横に振った。
「あとは」紅根はゆっくりと呼吸をした。「私と彼が恋人だと信じてくれる人と、彼が死んだ理由を知れば、彼が完全に私だけのものになると思ったの。でも、宵月さんが彼女だったとはね。……あーあ」
さあ、と俺は顔に力を入れ、両手で額を撫でた。
「じゃあ、今度は俺の番だな」
紅根はゆっくりと頷き、こちらを見た。
「まずは本当のことを伝えよう。あいつは宵月となんか付き合っちゃいない」
「ん?」
「ごめん。嘘を吐いた。紅根が嘘を吐き通そうとするものだから、つい」
紅根はしばらく黙っていたが、そのあとすぐに微笑み頷いた。
「うん。私こそ、ごめんね。本当のこと言わなくて」
そして彼女は立ち上がり、左手で俺の頬を思いっきり叩いた。美しい音色だったかもしれない。それは店内を飛び回り、それから外へと消えていった。それが俺の目には光るカモメのように見えた。
「じゃあ」紅根は席に着いた。「続きを教えて」
いくつもの静寂と視線が、こちらから各々に戻るのを待ってから俺は口を開いた。
「宵月と香月君の」鉄の味を少し感じた。「……宵月と香月君の関係だが、彼らは恋人同士だった。宵月が言うには、十二月の最初の頃まで」
「知らなかったな。いつから?」
「付き合った期間は4か月と言っていた。つまりは8月、夏休みに付き合い始めたのだと思う」
「それで?」
「これは事実だ。これは宵月に確かめた。嘘を吐いているとは思えない。香月君に聞いてもいいかと脅して聞いたくらいだ」
紅根は鼻を啜った。
「そして、ここからが俺の想像だ。紅根には申し訳ないことをしたけど、どうしても君の排除が必要だった。なぜなら、あいつは宵月のことが好きだったからだ」
紅根は口を半分開け、また閉じ、そしてまた開けた。
俺は彼女が何か言う前に、手でそれを制した。
「だから紅根が彼女だとしたら、おかしいなと思ったんだ。浮気も結構なことだが、それがあいつに出来たとはどうしても考えられなかった。それよりも、君があいつの彼女じゃないのではないかと考える方が楽だった」
「でも、それも結構堪えるな」
「紅根も堪えるだろうが、あいつも堪えたはずだ」
「……そうだよね。失恋ってことだよね」
俺は頷いた。
「でも、失恋したから自殺を選んだの?」
「分からない。でも、そのヒントになるのが、あいつが読んでいた本だと思う」
俺は鞄から一冊の文庫本を出した。
「本……?」
「見覚えは?」
紅根は首を振った。
「最後にあいつの部屋を覗いたのはいつ」
「8月の……お盆が終わった頃」
「これはあった?」俺はカバーを外し、本のタイトルを見せた。
「『友情』。……なかったと思う」
「うん。あいつがこの本を買ったのは九月の初め頃だ。駅に入っている本屋で買った」
「それで?」
「なぜあいつが、その本屋でこの小説を買ったというのが分かったのか。それはこのカバーが、少し歪な形で折られているから。ほら、左右対称じゃないだろ?」俺はカバーを外し半分に折ってみた。「なぜ、こんなことになったのか」
「なんで?」
「アルバイトの人がまだ入ったばかりで、ミスしたんだ。だから、あいつがその本屋でこれを買ったというのが分かった。でも、問題は次だ。アルバイトの店員さんは、やり直そうとした。でも、あいつはそれを断り、突然、急いで店外へ出たそうだ」
「何があったの?」
「携帯電話が鳴ったから? 違う。それはすぐに出るか、後でかけなおせばいい。メールも同じだ。では、なぜあいつは急いでいた。……おそらく、あいつはある人を見かけたんだ」
「誰?」
「宵月だよ」
「宵月さん?」
「そう。ただの友人同士なら別に本屋で遭遇しても気にしないだろう。だが、その頃に気まずい関係になっていたのならどうだ」
「それって?」
「告白して振られていたのならどうだ」
「……それ確かめたの?」
俺は首を縦に振ろうか、横に振ろうか迷った。あいつは宵月に告白なんてしていない。だが、彼女はあいつが自分のことを好きだということに気付いていたはずだ。
紅根はテーブルの上に一度視線を落とし、それからまた、俺を見た。テーブルに出していた手は、引っ込めていた。
「もちろん、こんなことで死ぬやつじゃないと思う。あいつが自殺したのは、九月の下旬。あいつが失恋したのは八月の下旬。一ヶ月も失恋を引っぱっていたとは俺には思えない」
「そうかな?」
「俺はそう思う」
「でも、失恋ってかなりきついものだよ。……連織君は外見がいいから、そんな経験ないと思うけど」
痛いところをつく。そんなことはないと言いたいところだが、否定したら話が脱線しそうだ。
「そうかもな。そうかもしれない」
ぬるくなったコーヒーを俺は一口飲んで頷いた。
「俺の考えに戻ろう。俺が気になっているのは、この本だ。この本以外に、あいつは二冊小説を買っていた。だが、俺が気になっているのはこの本だ」
「どうして?」
「それは……この小説のネタバレになるけどいい?」
「いいよ」
紅根は頷いた。
「この本の主人公は、恋と友情を同時に失う」
紅根の顔が強張った。
「まるで、あいつが現実で体験したことと同じじゃないか?」
フォークとスプーン、そして皿が擦れる音、他の客の声、店員の声、その他多くの店内の音が一斉に耳に届いた。
「じゃあ」俺は口を開いた。「なぜ、あいつはそんな本を失恋後に読んだのだろう。俺なら耐えられない」
「……うん」
「俺が思ったのは、あいつは……この本の内容を知らなかったんじゃないかってことだ。あいつは小説を読むようなやつじゃなかった。だから」
「どうやって、彼はこの本のことを知ったの?」
そう。紅根の言う通りだ。
「俺もそう疑問に思った。じゃあ、誰があいつに、こんな本を教えたのか」
「誰?」
「あいつの交友関係は調べた限りでは狭かった。家族の他には、俺と香月君、宵月だけだろう」
「そうね」
「俺は本を読まない。宵月は本を読む。香月君は分からない」
「香月君の趣味が読書だとは聞いたことないけど」
俺は肩をすくめた。
「じゃあ、宵月がこの本をあいつに薦めたのだろう」
俺は、宵月に友達に何か本を薦めたことがあるのか聞いたときのことを思い出した。確かに少し変だったような気がする。だが、同時に、彼女に最近、『友情』を読んだと言ったときのことも思い出した。そのとき、彼女は何かおかしかっただろうか。いいや、何もおかしくなかったと思う。
「もし、それが本当なら、私、宵月さんを許せない」
「それを聞いてみようと思うけど、宵月と会うのは三箇日が終わってからだ」
「そう」
「そう。これで進展の報告は終わりだ。少しは落ち着いた?」
「どうかな」
紅根はそう言って外を見た。
俺も外を見てみた。白い雪のようなものが舞っていたが、それが本物の雪だと気付くのに少し時間がかかった。俺は窓に半透明に反射している紅根の顔を見た。彼女は気がきいて、明るくて、意外と乙女で、狂っている。そして、その狂気は彼女の愛の形なのかもしれない。
電話で聞いた紅根の言葉を思い出す。
『私、彼を本当に愛してるの』
彼女は友達に狂っていたのだ。あいつの死さえも、紅根にとっては心溶けるものだったのだ。
では、一体あいつのどこに、そんなに惹かれたのだろうか。
聞いてみることにしよう。
「なあ、あいつのどこが好きだったんだ?」
紅根はこちらを向いた。
「ケーキを食べながら話すよ」
俺はテーブルに置いてある呼び出しボタンを押した。
寝正月は素晴らしいものだと思うのだが、テレビの向こう側ではそうでもないらしい。神社の境内では、ものすごい量の人間がところせましと右往左往していた。見ているだけで、重箱に盛り付けられたおせちの美しさが分かった。
父と母と弟も人混みが大好きなようで、二日連続の雑煮とおせちの残りを食べたあと、意気揚々と出て行った。弟は中学生になったのにもかかわらず、女の子にさほど興味はないらしい。その頃、俺と幼馴染はすでに付き合っていたというのに。
俺はたまにくる宵月のメールに付き合いながら、テレビを見続けた。宵月も女友達と初詣に行っている。アリバイのように写真も送ってきた。隣にいる女友達とやらも可愛かったが、宵月と比べるとやはり劣った。そう考えると下半身が疼いたが耐えた。我慢はいいことだ。
紅根からもメールが届いていた。新年の挨拶と、犯人を捕まえろ、という意味の言葉が並んでいた。
「誰も悪いやつなんていないよ」
俺はあくびをして、カラダを伸ばした。
新年を迎えるうちに、確かに存在した怒りはどこかに消えていた。雪の中に埋もれたのか、鎮火したのか、出し尽くしたのか、どれかだった。宵月に欲望を放出したら、またそれも顔を出すかもしれないが。
そんな俺の気持ちに勘付いたのか、紅根から、また、メールが届いた。
「まだ終わってないからね? 頼むよ」
俺はそれを音読し、携帯を閉じた。
果たして解決するのやら。
1月5日。俺は宵月と神社で待ち合わせた。鳥居の前で待っていると、彼女が三十メートル先くらいから手を振ってやってきた。二人組の男たちが、すれちがいざまに彼女の顔と体を見たが、そこに嫉妬や優越感はなく、ただただ俺は、ああ可愛い、と思って早く抱きしめたくなった。本当に宵月は俺の恋人なのだろうか。もっと違う代名詞が必要な気がしてならない。
「ごめん。待ったでしょ」
「大丈夫、大丈夫」
俺たちはさっそく手を繋ぎ、参道を歩いた。参拝客はまだ多く、たまに避けなければいけなかった。
カップルよりも家族連れが割合を占めていた。クラスメイトや知人を見かけなかったのは幸運だ。
「今年2回目? 神社」
「そうそう。天満宮の方、人多かったー」
「どうだった?」
「あのね、おみくじで大吉が出たの。実は初めてで、めっちゃうれしかった」
俺の手を振って喜びを表現する彼女は可愛かった。
「よかったね。なんて書いてあったの?」
「仕事運がいいって」
「仕事?」
「うん。だからバイトでも始めようかな」
バイトか。看板娘としては満点だろうな。
「なんのバイトがいい?」
「おしゃれなカフェとか、バーとか?」
カフェなら一発合格だろう。バーは、ない。未成年だし、高校生を雇うところなんてないな。
「いいね。始めたら行こうかな」
「来て来て」
上機嫌な彼女を繋ぎとめながら、境内を進んだ。手水舎で手と口を清め、賽銭箱に五円を入れて、神様に挨拶をする。お願い事は考えていなかった。彼女が頭を上げるのを見て、思わず浮かんだのは友達の冥福だった。そして、自分自身も友達の恋敵になっているのに今さらながら気づいた。
そこに興奮や罪悪感はなかった。ただ、友達が死んでいることに感謝した。俺のせいであいつが苦しまずに済むのは、とても楽だった。俺は卑怯な人間かもしれない。
「お願い長かったね」
ようやく真っ直ぐになった俺を見て、宵月は笑った。
「みんなの健康を祈った」と俺は嘘をついておいた。
おみくじは吉だった。中身は大したことない。待ち人は年長者で、よく敬い倣えばよし。恋愛については、出会いはあるが正直にならなければ意味がない。そう書かれていた。
「私、また大吉」
彼女のおみくじには、遠方に縁あり、とあった。携帯でそれを写真に収めているのを見ると、本当にうれしいらしい。
俺たちはそれを紐に結び、来た道を引き返した。人は相変わらず多かった。
「これからどうする? ヒロくんお腹空いてる?」
「まだ空いてないなあ。とりあえず駅まで歩こうか」
「うん」
神社を出ると、寒さと暖かさ分け合うように2人で腕を組んだ。途中、俺たちと同じように腕を組んだ老夫婦とすれ違った。彼女も、俺も何も言わなかった。その瞬間、俺たちは、少なくとも俺は別れを感じた。冬の風が顔を強くなぞり、腕の力が少し抜けた。これは恋愛ごっこであり、性欲の成れの果てだった。宵月が明日、俺の電話をとってくれる保証はどこにもない。
「ねぇ、あいつに本を教えてないんだよね?」
彼女は何も答えなかった。
「ねぇ?」
「またその話? どうしたの?」
言葉の底に針が潜んでいた。
「あいつ、失恋して、あの本読んで、死んだのかもと思って」
「失恋? 紅根さんと別れたの?」
ああ、そうか。まだそういうことになっていた。いや、待て。宵月はあいつの気持ちに気付いているよな。その上でしらばっくれているのか? 違う。紅根の存在がその気付きを勘違いにしているのかもしれない。
「ふと思ったんだけど、あいつは実季のことが好きだったんじゃないかって」
何かを言おうとした彼女に、覆い被さるように俺は続けた。
「だって、突然メールが途切れたんだよね? 失恋して、悲しくなって、連絡しなくなったのかも」
「それはないよ」彼女はそう言って俺から腕を離し、「それはないよ」と繰り返した。
「なぜ?」
「とにかく、それはないし、紅根さんと付き合っていたんでしょ」
紅根の嘘をここでバラすことは、俺にはできない。
「紅根とは付き合っていた。でも、それについて疑問に思っている」
「どうして?」
「だって、二人の関係を知らなかったから。実季も驚いたでしょ。俺なんて同じ教室にいたのに全く分からなかった」
「そう」
彼女は何も付け加えなかった。沈黙と寒さがそこにいた。何かを言うには怖かった。だが、言わなければ。
「本は実季が教えたの?」
「私じゃない。私じゃないし、彼は私のことなんか好きじゃなかった」
そうか、と俺が言いかけたとき今度は彼女が覆い被さってきた。
「だいたい、ヒロは身勝手だよ。彼が死んだあとに、彼の秘密を知ろうとするなんて意味がないよ。あと、何にも知らないのなら、あなたは部外者。このことには関係ない」
彼女は一呼吸置くと、俺の正面に立ち、俺の顔を両手で掴んだ。
「あなたは私だけを見るの。私だけを見て」
くりくりの大きな目で、そう命令された。
ああ、なんて可愛いのだろう。どこかのドラマから盗んできたシーンみたいだ。さぞ、俺たちは絵になっていることだろう。お返しに、キスするのが台本通りかもしれない。それにキスはいつだってしたい。しかし、それは馬鹿のやることだ。
俺は理性と性欲を刹那のうちに戦わせ、単純明快な性欲を支持した。黙って宵月を見つめ、キスをした。
「それでよし」
彼女はお似合いの台詞を笑顔で言った。
機嫌がよくなった彼女の体温を感じながら、俺たちは歩いた。そして、年始にも関わらず運良く開いていたイタリアンレストランでパスタを食べ、ラブホテルに夕方までいた。お年玉が少し消えた。
それにしても彼女は女優気取りの高嶺の花風女子だったが、俺と同じ性欲主義者という中途半端な位置にいた。おかげで俺は満足だが、彼女はいいのだろうか。彼女はメリーゴーラウンドから世間に手を振り、俺は腰を振っている。気付いてしまえばなんて愚かで滑稽な世界で過ごしているんだろうと落胆する。全て出し切ると毎度ながら思うことだが、今日はいつもよりそれが強い。あの老夫婦を見て、自分たちの恋が偽物だと言われているかのようだ。性欲解消だけの関係ならと思うこともあるが、それは俺に残る少しの誠実さと、彼女のプライドが許さないだろう。アニメキャラのシャワーシーンに照れていた子どもの頃が懐かしく、うらやましい。
俺はそんなことを考えつつ、下腹部のすっからかんを感じながら、帰路についた。手洗いを済ませると、夕飯を遠慮し、部屋にこもった。夕飯をとらない俺を心配したのか、しばらくすると弟がやってきた。
「これでも食べな」
せんべいを捨てゼリフと共に投げてよこすと、弟は満足気に去っていった。そこにどんな意味があるのか。とりあえず俺は「ありがとう」と言っておいた。
歯を磨き、日記を書き終えた俺は、机に向かったまま、宵月について考えていた。これが、会いたいとかせつないとか、恋愛絡みならステキだと思うが、そうではない。
「あなたは部外者」
その言葉が引っかかっていた。彼女の言う身勝手の意味はなんとなく分かる。遺書も残さず死んだ人の、自殺の動機を探す行為は泥棒に近いかもしれない。しかも、宝探しのような興奮がなかったと言えば嘘になる。結局は自己満足で、それが紅根のためにもなるというくらいだ。
しかし、部外者の方は納得できない。俺は友達だ。宵月も友達だろう。なんの違いがある。
「何にも知らないのなら」
彼女はそう言っていたが、俺は何を知らないというのだろう。もう一度掘り返すか。いや、宵月は激怒し、俺に愛想をつかすだろう。どうしたらいい。
いや、どうせずともいい。しばらく休みをとろう。
俺は知らず知らずのうちに、せんべいの袋を開けていた。せんべいは意外にもうまかった。もう一度歯を磨く馬鹿馬鹿しさもあったが、せっかくならもう一枚食べておこうと、キッチンへ向かった。
三学期が始まるとノートの貸し借りがきっかけで、隣の席の田中と仲良くなった。彼はバスケ部だった。身長は一八八センチあるらしく、彼女は一個下のバレー部員ということを聞いていないのに教えてくれた。
「連織も彼女いるんだろ?」
彼は顔も悪くない。割とモテるような気がする。
「いるよ」
「めっちゃ可愛いって本当?」
おしゃべりをもう少し控えればさらにモテるだろうが、その気はないらしい。
「可愛いよ」
「写真か何かないの?」
俺は見せるかどうか迷ったが、見せて得はないと判断した。
「ないよ」
「うそぉ」
彼は大げさに机に倒れた。
「じゃあさ、今度、ダブルデートしようぜ」
俺は笑った。突拍子もない。呆れるなあ。そう思いながらも愉快ではあった。
そんな俺が珍しいのか、何人かの女子がこちらを向いた。紅根も目線をよこした。もちろん、あの件はどうなっていると言っている。進捗なしの報告は怒りの導火線に火をつけたようだった。導火線の長さは分からない。
「そういえばさ」と田中は声を抑えた。「紅根さんとデートしたって本当? 去年」
「したのかなあ? お茶しただけだよ」
「それは、どっちかが、つまり連織か紅根が」
彼の言わんとしていることは分かった。
「お互い恋愛対象じゃない」
「じゃあなんで?」
「デートは冗談で、ちょっと人を紹介してもらっただけ」
「彼女?」
「違う」
4限目の国語がもう少しで始まりそうだ。
「じゃあ、誰?」
「香月っていうやつ。男」
「ああ、そうなんだ」
意外にも理由は聞いてこなかった。俺なら気になるが、彼は女にしか興味がないのかもしれない。
国語の授業が終わると田中は購買へと走った。目標はメンチカツサンドかコロッケサンド、それがなければ焼そばパンだった。一度も取り逃がしたことはない、というのが彼の自慢らしい。持ってきた弁当は2限目と3限目の間に食べ終えていた。
俺は料理に目覚めた弟が作った、オムライス弁当を食べた。ハート型のケチャップということはなく、兄と書かれていた。正直なところケチャップの量が足りない。
田中は昼飯を食べ終えるとそのまま寝た。
同級生のざわめきに蓋をするように俺はイヤフォンを付けた。あいつに教えてもらったパンクバンドの歌詞は、今もところどころしか聞き取れない。
ああ、もうお前はいないのだ。俺はライブハウスに一人、取り残されている。思わず溜め息を吐く。空気は明るいのに、酸素は暗闇だ。
どうだ、少しは歌詞っぽいか? ばかやろうが。
その後も俺の気分は晴れず、早くも2月に入った。インフルエンザの予防接種をしたとかしないとか、田中とどこかに消えていくだけの話をしながら過ごしていた。そんなときに俺は担任に呼び出された。授業態度もよく、成績も悪くない。呼ばれた理由を見つけるとするならば、性生活か、友達のことだろう。
放課後、担任は指導室へ俺を連れて行った。指導室に入るところを下級生の女子に好奇の目で見られたが、何もしていないという反論はしなかった。俺はどこか疲れている。最近は宵月とも会っていない。
指導室には何か月ぶりに入っただろか。模様替えはされておらず、簡素な長テーブルと椅子しかなかった。なんとなく薬品臭がする。廊下よりも寒い。
パイプ椅子に座り、担任と対面すると「元気か?」と、どうでもいいことを聞いてきた。
「はい。元気です」
「最近、田中と仲いいみたいだな」
「隣の席なので」
「そうか」
俺と友達は席が離れていた。でも仲がよかった。
「実は、本を返してほしいと電話があってな」
本? あ、本。あいつに本を返すのを忘れてた。いや、あいつじゃなくて、親か。
「ああ、借りっぱなしでした。返します」
担任は頷いた。
「俺が預かって返してもいいけど、どうする?」
「自分で返しに行きます。いつがいいんでしょう」
「早めがいいと思う。でも、任せるよ」
俺は本に未練があるだろうか。
考えてみたが、もう調べ尽くしたはずだ。返さない理由はない。
「明日の放課後にでも返しに行きます」
「分かった。連絡しておく」
会話が終わると一層、薬品が臭った。鼻水が出てきそうになり、鼻をすすった。
「何か分かったか?」
思考力が低下しているせいか、風邪の症状を感じているせいか、担任が何を言っているのか、数秒分からなかった。
ようやく友達の死の理由のことだと分かった頃には、先に話されていた。
「俺には分からなかった。何かに悩んでいる様子を少しも感じられなかった。たぶん、シグナルがあったはずなんだ。でも、分からなかった。亡くなってから、もっと話しておけばと思ったよ。調べたとまではいかないけど、いろんな人に話を聞いた。カウンセリングの医者に話も聞いたし、中学の頃の担任にも会った。おとなしく真面目な生徒で数学が少し苦手だったらしい。それは分かっていた。でも、得意科目は美術と音楽だったって知ってたか? 普通科にはその2教科はないから、俺は知らなかった。いや、言い訳だな」頭を掻いて、担任は続けた。「連織以外のクラスメイトにも何かなかったか聞いたけど……。分からんかった。連織と仲がいいと言うだけだ。お手上げだ」
そう言いながら、手は上げなかった。テーブルの上に手を出し組んだ。ごつごつした指には婚約指輪があった。たしか学生結婚だったはずだ。何で知っているんだ。たぶん、授業の合間に女子の質問に答えたんだ。べらべらと個人的な話を喋ったんだ。田中みたいに、聞いていないことも話したんだ。馬鹿みたいに、秘密なんてないみたいに。なんで友達より、この人のどうでもいい情報の方が先に出てくるんだ。
「自分も分かりませんでした」俺は何も考えず話し出した。「なんで、あいつが死んだのか。何に悩んでいたかも、謎のままです。本を借りて、中学時代の友達に会って、話をして、結局、分かりません。つまり、あいつは自分の都合で死んだんです。俺たちが苦しむことなんか想像できなかったんです。そのくらい追い詰められてたんです。追い詰められてたのに、俺は何もできませんでした。何も気付いてやれず、あいつも俺に何も相談してきませんでした」
そうなんだよ。
「友達なのに何もですよ。俺はそれが」
目が熱かった。
「俺はそれが悔しいです。俺はあいつのために何もできませんでした。あいつの人生から、俺は外されたんです」
俺は鼻を啜った。風邪か感情のせいか分からなかった。いつの間にかテーブルの表面を見ていて、ここから逃げ出したくなった。
そんなことはない。
そんな安易な言葉は飛んでこなかった。ただ沈黙があった。
俺は恥ずかしさをこらえて顔を上げた。担任はハンカチを手に泣いていた。
「何、泣いてるんですか」
目を赤くした大人を見て、俺は驚いた。この人は正直な人だ。先生としてはどうかと思うが、下手な言葉をかけられるより、助かった。
俺は友達から梯子を外された。もしかしたら死んだのは俺の方かもしれない。死ぬのは悔しいな。なぁ、なんとか言えよ、友達だったんだから。俺は部外者にはなりたくないんだよ。
「明日、本返しに行きます」
胸の奥から込み上げる感情を抑えながら、かろうじて言うと、先生は「わかった」と答えた。
昨日はいろんなことがあった。あの後、指導室に入るところを見ていた下級生の女子にラブレターをもらうとは思わなかった。彼女がいるからと断る前に、「すみません」と足早に去っていった。近くにいた別の女子が、それを追いかけていった。
さすがに、ごめんなさい、と大声で背中にぶつけることはできず、持ち帰ってしまった。やっかいな宿題だ。
寝る前に開けると、一目惚れ云々と書かれていた。
一目惚れというのは動物的に正しいと思っている。直感的で、知識とか金とかいった付属的なものがない。DNAだけを求めている。だが、現代ではそれだけではいけない。お互い不幸になる。だから俺は初恋の相手と別れた。いや、それは違うか。俺は彼女をできるだけ傷つけたくなかったし、自分の欲に我慢できなかっただけのやつだ。
とりあえず俺はラブレターに書いてあったメールアドレスにフリーメールから断りの返事をした。彼女がいるから、ごめん。それだけだ。もし友達からでもといったメールが来ても、それは無視する。宵月を裏切ることは俺のルールに反する。宵月が俺のルールに反するのはどうでもいいが。
案の定、メールは返信されてきた。ただ、わかりましたと物分かりがいいものだった。もし宵月と別れたらと考えもしたが、俺よりもいい男を捕まえてほしいものだ。DNAだけが恋愛ではない。
正直に言うと、タイプではなかった。
翌日、6限目が終わり、担任からの連絡事項を聞き終えると、俺は本を返しに向かった。田中には、おつかれ、とも言わず、宵月の放課後デートのお誘いも断った。言い訳探しに手こずったが、最終的に体調不良ということにした。嘘ではない。鼻水がひどくなっている。
冬の空気はさほど冷たくなく、歩くのは苦ではなかった。ただ、あいつの家に近づくにつれ、本を入れている紙袋が重くなっていく感じがして指が痛かった。俺ではなく、文庫本にあいつが憑いているのではないかといった馬鹿げた考えも浮かんだ。
例の蔵が夕闇の中に見えると、俺は一呼吸置くために足を止めた。あいつの首吊りのイメージが、見てもいないのに脳裏に浮かんでは消えた。
俺は嫌なものを消すように何かを言おうと思い、やめた。
何も考えるな。行こう。
呼鈴を鳴らすと、玄関が開き、おじさんとおばさんが一緒に出てきた。
「本を返しに来ました。遅くなりました」
謝ると二人とも首を振った。
「寒かったでしょ。お茶でも一杯飲んでいきなさい」とおじさんが言い「さあさあ」と招いてくれた。
断ることも考えたが、なんとなく上がることにした。二人が俺に話したいことがある気がした。
前回と違い、俺は和室に通された。おじさんが前に座り、おばさんは「母さん、お茶を」と言われ、出ていった。
まるで面談しているかのようだった。おじさんは教師だっただろうか。おそらく違う。たしか、薬品関係の仕事だ。何をやっているかは思い出せない。聞かなかった気がする。進路を決めなければいけない今頃に、お前がいたら俺は聞いただろうな。
「これ、遅くなりました」
改めて本を渡すと、おじさんは両手で紙袋を受け取った。
「どうだった? 本は」
「恋愛系の小説でした。意外でした」
「そうか。そういった話はしなかったから、私も意外だな。連織くんにもそういったこと話さなかったの?」
「全く」俺は小さく首を振った。「正直な話、なぜそんな話をしなかったのか分かりません。音楽とかテレビでやってたニュースとか事件とか、そんな話ばかりでした」
おばさんがおぼんに急須と湯飲みを乗せて戻ってきた。俺はお茶の準備ができるのを待たずに続けた。
「自分に彼女がいたときも、別れたときも何も言われませんでした。気を使ってくれたのかもしれません。実際、楽でした。だから、自分もいろいろ聞きませんでした。それが……」
いやいや、俺は何を言おうとしている。恋愛が原因か分からない。
「もっと、話しとけばよかったと思うし、話したいのに、と思っています」
おばさんがお茶を出してくれた。澄んだグリーンで、細かなかけらとなった茶葉がわずかに舞っていた。
「他に思いあたることはあった?」
おばさんは自分の分のお茶は注がずに聞いてきた。
「何も」俺はさっきよりも大きく首を振った。「自分以外と連絡をとっていた香月くんと、宵月さんという女子もいたんですが、夏休み頃から二人とも連絡が途絶えたそうです。理由は不明です。最後に話した友達はおそらく、自分ですが、思いあたるところは本当にないんです。だから、いろんな話をもっとしていれば何かに気付けたんじゃないかと」
後悔しているとは言えなかった。言葉の先に深い渓谷があるようだった。自分が何を言いたいのか、何を思っているのか分からない。
「香月くんか」
おじさんはそう呟いた。
「その宵月さんって子は、どんな子なの?」
おばさんはまだお茶を注いでいない。
「宵月さんは中学一年のときのクラスメイトです。香月くんと同じように、仲良くしている友達です」俺は逡巡したが続けた。「恋愛感情とかはお互い持っていなかったと彼女は言っていました」
「そう。他には何か分からなかった?」
「何も。交友関係の範囲は知った限りでは狭かったです。自分も同じようなものだから、仲良くなれたのかもしれません」
おばさんは急須から手を離した。お茶は注がなかった。
「私たちが悪かったのかしら」
おばさんの表情は暗く、何かを失っていた。それは息子一人分ちょうどな気がした。
「母さん、何かお茶受けでも持ってきてくれない?」
おじさんが言うと、おばさんは「そうね」と立ち上がった。
再び二人きりになると、ひとり言のようにおじさんは話し始めた。
「あの子は優しい性格だっただろう。穏やかで。でも、母さんとは結構やりあってたんだよ。勉強とか片付けとか、些細なことで。年取ってできた子だから、母さんはきちんと躾けなきゃと思ってて、私は私でかわいくて甘やかして。性格が私と似てるというのもあるかもしれないな。夏くらいに母さんと大喧嘩してね。進路のことで。あの子は音楽関係の専門学校に行きたかったみたいで、でも母さんは大学に進学しろと。暴力はないけど、壁をおもいきり殴って、皿も割れて。私も珍しく叱ってさ。その激しさが自分自身に向いたのかな。もし進路のことが死を選んだ理由なら申し訳ないことをした。後悔している」
俺は黙って聞いていた。湯飲みの底が少しずつ濃くなっていく。
「でも私は違うと思っている。ただの自己弁護に聞こえるかもしれないけどね。あの子は…」
何だろう。
おじさんは口を閉じ、頭に何か巡らせているようだった。それでも機会は逃すべきではないというように、俺の目を見て言った。
「あの子は、連織くんに告白したかい?」
「告白?」
俺は脊髄反射的にその予想外のワードを口に出した。
おじさんは頷いたが、俺は理解できなかった。
告白といえば、俺が女性にしたり、されたりしているものだろうか。それをなぜ俺が受けるのだ。いや、そういう混乱はやめろ。そのまま受け止めろ。
「告白はしていません。つまり、されていません」
「そうか」
おじさんはようやくお茶を飲んだ。それを見て俺も口に含んだ。
「もしかしたらと思っただけだ。女の子の気配がなかったし。この話は忘れてほしい」
俺が返事をする前に、タイミングよくおばさんが帰ってきた。置かれた平皿には包装されたクッキーやチョコレートが乗っていた。
「あの子がこのクッキー好きでね」
そう言うおばさんの目は充血していた。
それからは友達の子供の頃のエピソードを聞かされた。すべり台が好きで、いろんな公園に行きたいと言っていたこと。料理はカレーだけは得意だということ。俺もそれは聞いたことがあると伝えた。食べたいとか、食べさせてあげるとか、そういう会話はなかったと思うが、今になって食べたくなった。
お茶を飲み終えると、俺は線香をあげさせてもらった。仏壇にある写真の中の高校生は、もういない。つまり、俺には友達がいないのだと改めて突き付けられた。田中は、友達とは言えない。いいやつだが、物足りない。
俺は二人に見送られ、玄関を出た。残ったお菓子は全部おみやげに持たされた。また来てね、と言っていたが、どのタイミングで行けばいいのか分からない。一周忌だろうか。俺はまたここに来られるのだろうか。振り返ると蔵がまだ見えた。怖さは薄らいでいたが、それは体調の悪さが原因かもしれない。
動きたくない。たぶん熱がある。緊張したせいで、風邪が悪化したのかも。緊張していたから気づかなかったのかも。
俺はとぼとぼ歩くしかなかった。途中、杖をついた老人とデッドヒートを繰り広げた。親子連れには追い越された。
家の近くの信号で捕まると、悪寒がした。歩道の端で横になりたかった。赤信号が憎い。
今にも雪が降りそうな寒さだ。太陽は沈み、たくさんの雲が出ている。街の光のせいで雲の表情もよく見えた。だから何だ。苦しい。
かじかむ手を宵月からもらったマフラーで包み、進むしかなかった。体の節々が痛い。
「熱だな」
俺は、しんどい、の代わりにつぶやいた。菌かウイルスが僅かに外に出たような気がして、一瞬だけ安らいだ。しかし、それよりも早く侵入者は増殖しているようだ。
家に着く頃にはくたくただった。俺はダウンジャケットと制服を脱ぎ捨てて、新しいシャツとジャージになんとか着替えた。親は残業で帰ってきていない。頼れるのはしっかり者の弟だけだ。
しかし、そんなときに限って弟は来ない。彼女でも連れ込んでいるのかと思ったが、それはないだろう。いや、なぜないと言いきれるんだ。あり得る話だ。俺はきっと弟のことをきちんと知らない。それは、だめなことだ。
俺はうなりながら体の痛みに耐えた。眠りについても、起きたのは数十分後だった。
俺はベッドから降り、這いつくばって部屋を出た。壁に寄り掛かりながら廊下を歩き、キッチンに出て薬箱を漁った。解熱剤を一発で引き当て、それを飲んだ。コップに水を注ぐのさえ一苦労だった。
俺は脱衣所に寄り、タオルを持って部屋へと戻った。
「大丈夫?」
ようやく弟が出てきた。
「だめ。熱。近づかない方がいい。あ、水だけ持ってきてほしい」
「風邪?」
「たぶん」
弟はすぐにペットボトルの水を持ってきてくれた。さらにゼリー状のエネルギー飲料みたいなものも置いていった。さすがだ。
「いいお嫁さんになるな」
すぐに酷い冗談だと思ったが、弟は気にしていないようだった。
「俺、彼女いるから、なるなら主夫かな」
そう言って出て行った。
やはり、知らないことは山ほどある。
俺はその後、二度、シャツと下着を替えた。何度も熱に起こされた。しかし、その感覚は徐々に長くなり、深夜2時半の後は、6時まで起きなかった。一度、母親が様子を見に来て、飲み物を置いていったことをなんとなく覚えている。
しんどさは残ったが、熱は下がった。それだけで俺は自分の体を褒めてやりたい。死ななくてよかった。大袈裟だと直後に思ったが、いやいや、死ななくてよかったよと思い直した。
その日は学校を休んだ。熱は上がらなかったから、病院には行かず、家で過ごした。昼はもらったお金で蕎麦を頼んだ。それ以外は寝るか、ネットサーフィンで時間を潰した。昨日分の日記も書いた。一日はあっという間で、いかに学校がつまらないものになったか分かる。
宵月には風邪をひいたことをお知らせした。お見舞いに来るということはなかった。その代わりに、治ったらデートに行くことになった。美術館に行きたいらしい。宵月は予想外にも文化系女子だ。そう考えると、本当に俺のことを好きなのかもしれないと思ってしまう。申し訳ないことだ。
俺はなんとなく自分が弱くなっていることに気付いた。それが風邪のせいだと分かっているが、それでも孤独を感じずにはいられなかった。他の誰からもメールは来ず、つまりは誰からも必要にされていない。死にたくはないが、昔の楽しかった思い出が走馬灯のようによみがえり、苦しくなった。
土曜日に、宵月とデートをした。印象派の絵は響かなかったが、彼女のきれいな顔を見られたのはよかった。そんなことを言うと、「ありがとう」と照れられた。その顔もかなりかわいかった。
だんだんと宵月のことが好きになっているかもしれない。いつかフラれるのに、俺はバカだ。しかし、感情に嘘はつけない。傷付く準備はまだできていないが、覚悟はしている。もしくは、この感情も風邪の後遺症だろうか。
久しぶりに恋人と寄り添ったわけだが、その日はキスだけで終わった。舌を絡めるくらいに、お互い性欲がなかったわけじゃないが、俺はまだまだ本調子ではなく、彼女は少し風邪気味だった。
次に会うのはバレンタインデーにして、夕方前には駅で別れた。手作りのチョコをくれるらしい。
俺は寂しさと虚しさを感じながら、駐輪場に自転車を取りに行った。そのまま家に帰るのは、酷いことになりそうだった。例えば、泣いてしまうとか。
仕方なくショッピングモールへと向かった。ノートと何か特段、必要のないものを買いたかった。ショッピングがストレス解消になるという人の気持ちが分かる。得ないと失ってしまう。
マフラーに唇まで埋めながら、自転車を漕いでいると、少し気分がよくなった。かさぶたや角質が、ぼろぼろと落ちていき、きれいになった気がした。頭も軽くなり、突然、世界が冷静になった感覚を覚えた。方程式が分からなくても答えが分かり、顔に張り付く冷たい空気は運命だった。
香月くんに会わなくては。
考えずとも、次の選択肢が出てきた。
俺は口から熱い息を吐き、ペダルを漕ぐ力を強めた。
ただ、彼が今日、アルバイトをしているかは分からない。アルバイトを続けているかも分からない。でも、探さなければいけないし、待つ必要があれば何時間でも待つ。
俺は自転車を停め、一目散にハンバーガーショップに向かった。フードコートにある、その店のカウンター前には多くの人が並んでいて、店の奥は見えにくかった。彼はカウンターにはいなかった。でも彼がレジを打っているのか、ハンバーガーを作っているのか、俺は知らない。俺は待たなくてはいけない。
紅根とお茶をしたカフェで待とうか考えたが、見失うといけなかった。
俺が来たときがピークだったのか、5分から10分も経つとだんだんと人はまばらになり、店のキッチンスペースまで見通せるようになった。しかし、香月くんはいなかった。
もしかしたら、もっと奥にいるかもしれない。何か頼んで、店員さんに聞いてみるか。いや、教えてくれるだろうか。とりあえず、聞いてみるしかない。
そう思って一歩踏み出したが、自分がバカなことに気づいた。
そもそも香月くんはバックヤードを通って、従業員入口から出るだろう。
世界の全てが分かったつもりだったが、そんな時間はもう過ぎ去ったようだ。俺は通り道だろうカフェの前まで急いで向かった。
カフェの入り口には、クローズドの表札がかけられていた。張り紙もあり、そこにはマジックで黒々と臨時休業と書いてあった。店内の照明は消えていて、休んでいるというより、死んでいるようだった。
そこに突っ立って、俺は待った。通り行く老若男女が怪訝な視線を送ってくるのは気のせいだろうか。
さすがに30分も立っていると足が辛くなった。だが、周りにベンチはない。携帯電話で時間を確かめるのも苦しくなってきた。目の前を通る人に香月くんはいない。
立ち続けて40分、45分、50分になる頃に、俺は諦めた。駐輪場に向かって歩き、途中にある本屋をなんとなく横目で見た。
香月くんだった。香月くんが紺色のコートを着て、そこにいた。
俺はほぼ直角に曲がり、足を早めた。邪魔するものは何もないのに、人垣を掻き分ける気分だった。
「香月くん」
俺が呼びかけると、読んでいた本から顔を上げた。髪は少し長くなっていた。
彼は俺の目を見た。しかし、何かを逡巡し、本を平棚に戻して無言のまま立ち去ろうとした。
「ちょっと話したいことがある」
俺は側頭部に話しかけた。香月くんは歩き出していた。
「聞きたいことがある」
香月くんはそれを無視して、本屋の出入口に向かう。
怒っているのか、聞かれたくないことがあるのか。どちらにしても俺はうざったい存在だろう。何がいい。何が彼を立ち止まらせるだろう。
通路を歩き、もうすぐ建物から出る。冬の寒さが前からやってきている。俺は彼の後頭部を見ている。
駐輪場に来て、彼は自転車の鍵を開けた。ホイールの回転を止める輪っかが外れた。
「付いてくんなよ」
吐き捨てられた。警戒されている。当たり前か。しかし、糸口でもある。だしにするのは嫌な話題だが、香月くんの興味をそそる事柄はこれしかない。
「宵月さんのことだけど」
ようやく、俺の顔を見てくれた。間を空けるのはよくない。
「別れると思う」
俺は心の中で、いつか、と付け加えた。嘘じゃない。俺たちは、いつか別れる。
「だから?」
ごもっともな意見だ。
「宵月さんは、俺に隠し事をしていて、それが気になるんだ。でも、話してくれない」
「それがなんだよ」
分かる。分かるよ。意味のない会話にイライラするよな。俺が知りたいことはひとつなんだ。
「なんで、あいつは自殺を選んだ?」
真っ直ぐに見られた。外灯のおかげで彼の輪郭までしっかり見える。目の中には怒りか驚きか、悲しみがあるように感じる。いずれにしろ俺を見てくれている。
「知らない。それが実季と何の関係があんの?」
「友情という本は誰が教えた?」
「友情?」
「読書家でもない、あいつの部屋に珍しくあった本のタイトルだよ。初恋とかウェルテルとかもあった」
「それ、あいつが買って読んだの?」
「たぶん。宵月さんが教えたと思ったんだけど、違うらしい。その質問したら、俺は部外者だと言われたよ」
ハンドルを握ったまま、香月くんは下を向いた。瞬きもせず、考えていた。
風が舞う駐輪場は長く居続けるのには辛かった。病み上がりにとってはいたくない。香月くんは、見た目は大丈夫そうだが、内面は分からない。宵月と俺のせいで苦しんでいるのかもしれない。
「香月くん。香月くんは死ぬなよ」
「え?」
「自殺なんてするなよ。助けが必要なら誰かに言った方がいい。俺はあいつを助けられなかったし、助けも求められなかったから。まぁ、だから部外者なのかもな」
香月くんはまた黙った。だが逃げようとはしていない。
「お前は実季を……。いや、俺は実季にフられた。お前を恨んでいないと言えば嘘になる。お前さえいなかったらと思う。でも、遅かれ早かれ実季はいなくなったかもと今では思うし、結局は俺がだめだったんだ」
香月くんは唾を飲んだ。
「別れ話をしにきて、俺をフった実季のことはそもそも恨んでいない。因果応報な気がしてさ」
「因果応報って?」
香月くんは首を振った。
「お前は部外者だよ。だから俺も何も言わない」
「俺は友達だ。部外者じゃないだろ」
「どっちだよ。さっき部外者かもって言っただろ。とにかくお前は部外者だよ。お前は外見もいいから人の心を読むことを蔑ろにしてきたのかもな」
そうだろうか。
「図星かな」
黙っていると、ナイフのようにも見える彼の言葉と視線が、俺に向けられた。
「とにかく、部外者だよ。もっと優しく言うなら、部外者であってほしいんだよ」
香月くんは自転車に乗った。
「お前は友達だよ。でも、俺と実季はもう違う」
人の心を読めない頭で考える。やはり、3人の間に何かあったんだ。
「もう俺に近づくなよ。実季も俺とは関係ない。終わったんだ」
彼は自転車に乗って去っていった。一度も振り返らなかった。俺も背中にかける言葉はなかった。
糸口がひとつずつ消えていく。あいつとの接点が消えていく。あいつが少しずつ消えていく。
この世の理は、頭の中からなくなった。最初からなかったのかもしれない。
俺はショッピングモールに踵を返し、フードコートに向かった。途中、親に晩ご飯はいらないとメールをした。
香月くんのバイト先でチーズバーガーとフライドポテトを頼み、俺は近くの席に着いた。さっきの会話を思い出すが、俺の会話は話題が飛びすぎている。自分では理路整然、一直線にゴールへと向かっていると思ったわけだが、客観的に見ると突拍子もない。
そして、結局、あいつの死の理由にはたどり着けなかった。俺は香月くんにとっても部外者らしい。
だが、俺はひとつの仮説を立てることができる。これが真実なら、俺は紅根に黙っておくべきだろう。ただ、それが許されるかどうかは分からない。
あいつは、香月くんのことが好きだった。ゲイかバイセクシャルかは分からない。そして、香月くんに告白もした。でも、ふられた。香月くんは同時期に宵月と付き合うことになった。宵月とあいつはライバルだったことになる。もしかしたら、一か八かで告白したかもしれない。その後、香月くんか宵月から知った友情を読んで、自殺した。どうだろうか。
いや、これはあまりにも短絡的で気持ちが悪い。もう少し考えよう。
あいつと宵月と香月くんは中学の頃の同級生だ。表立って仲がいいわけではないが、少なくともメールでやり取りしていた仲だ。3人で遊んだこともあるかもしれない。しばらくはそのままの関係性が続いたが、ある日、香月くんに好きな人が現れる。それが宵月だ。それを知ったあいつは、健気にも香月くんの相談に乗る。同時に宵月に、恋愛相談をする。恋の相手が香月くんだと隠して。
好きな人の好きな人に恋愛相談をする。心労がたたりそうだが、俺の前では一切、そんなそぶりを見せなかった。
あいつと香月くんは、二人だけの作戦会議や下見、または擬似デートもしたかもしれない。さぞ楽しかっただろう。
だが、そんな時間は終わる。残念ながら香月くんの告白は成功する。
趣味が読書という共通点もあるし、ずっと仲がよかった。成功確率は低くなかったはずだ。
あいつは香月くんへの告白と、宵月へのカミングアウトのどちらを先にしただろうか。それは分からない。
いずれにしてもどん底に落ちたわけだ。友達と好きな人が恋人同士になるのだから。最悪なひとりぼっちだ。
あいつはその後、小説を読んだ。少しでも、心だけでも香月くんに近づこうとしたのかもしれない。だが、小説の内容は泣きっ面に蜂。さらに音楽関連の進学も、親にいい顔をされなかった。
すべてを奪われた。そう思うのも仕方がないかもしれない。
そして、そこに俺はいない。
俺はポテトを一本、噛んだ。思ったよりおいしくない。
周りを見渡すと、ほとんどが誰かといた。家族、友達、恋人。一人で食事をとる人もいたが、少なかった。
ここがゴールか。終着点か。あっけない。友達の死の理由を探し始めたときは、こんなところに来るとは思わなかった。犯人や動機に怒鳴ってやりたかったのに。ここは、ただ人がいて、生きていて、過ごしていて、それぞれが組み合わさって、独立している。彼らには秘密があって、それを話さない。話したら秘密はなくなり、何かが壊れていく。
俺の秘密は、何だろう。他のやつとヤりたいからと、恋人と別れたことだろうか。いや、そんなこと知れ渡っているか。
じゃあ、もう、秘密はひとつしかない。ただ、これは情け無い。浮かんだ途端に沈めたくなる。
俺はハンバーガーとフライドポテトを半分以上残して、終着点から去った。出発や門出といった雰囲気はなかった。行き止まりから暗闇の中へ進み出て、あとは迷うだけだった。
自転車を漕ぎながら、宵月と香月くんは無事に出発できたのか想像した。宵月に聞いてみるのもいいかもしれない。吹っ切れたのだろうか。
道中、知っている顔が頭の中に現れては消えた。それぞれの秘密を想像し、全部外れてる予感に安堵した。友達の顔も何度か出てきたが、その度に鳩尾が締め付けられた。彼の秘密だけは当たっている気がした。当たっていてほしくもあり、外れていてもほしかった。
車のライトが街を照らしているのを認識したのは、駅前に来たときだった。知らず知らずのうちに家から遠ざかり、そこに来ていた。
突如現れたかのように、本屋が見えた。明かりはある。周りにある建物はあるようで、なかった。
店には客が数人いた。カバーをかけるのが苦手だった店員さんは見当たらなかった。名前なんだっけ。
あの日、レジから宵月か香月くんを見かけただろう友達は、逃げるように去った。どんな気持ちだっただろう。
もしかしたら両方を見たのかもしれない。2人は手を繋いで歩いていたかもしれない。路上でキスしていたかもしれない。いや、そうだとしたら立ち尽くすかな。
「どうしたんですか?」
声に振り返ると、あの店員さんがいた。スカートで、ヒールを履いていた。眼鏡をかけていなければ、分からなかったかもしれない。
「いや、なんとなく」
彼女の少し心配そうな顔に、咄嗟に返事をした。
実際、理由などなかった。ここに来た意味も動機も俺にはない。
「なんか死にそうな顔してましたよ」
返す言葉は見つからなかった。それにしても、冗談みたいなことを言う人だとは思わなかった。人は見かけによらないな。
「今日は仕事じゃないんですか?」
「今日は休みです」
「そうですか」
「本の謎は解けました?」
「謎?」
「ここで、買われたかどうか。私もあれから気になって。なんで、そんなこと聞いてきたのか。でも、答えが見つからなくて」
俺は彼女の唇を見た。ピンクの口紅をしている。
「謎は解けませんでした。近くまではいきましたけど」
「なんで、あの本がここで買われたか聞いたんですか?」
「自殺した友達が持ってたんです。読書家でもないのに持ってたから、調べてたんです。なぜ買ったのか。なぜ読んだのか」
「それで?」
「結局、分かりませんでした」
冬の寒さは感じなかった。自転車を漕いできたせいか、彼女の熱量せいか。
「疲れてますよ。顔に出てます」
「僕の顔にですか?」
「はい」と彼女は頷いた。「大学生?」
「いえ、高校生です」
「意外。大人びてるね」
そうだろうか。自分自身では年相応だと思っていたのに。セックスのし過ぎだろうか。そんな冗談が顔を出したが、そのせいで妙に疲れた。面白くもない。
その時、頭の中で何かが繋がった。
ああ、マスエさんだ。この人の名前。
「マスエさんは大学生ですか?」
彼女は驚き、口を片手で押さえた。
「私の名前知ってるの?」
「本について詳しく聞きたかった日、マスエさんがいなくて。別の店員さんに聞いたら、『それはマスエちゃんじゃないかな』って」
「そっか」
そう言って、会話は途切れた。大学生かどうかは教えてくれなった。質問を忘れたのかもしれない。
マスエさんのまつ毛は長かった。眼は美しく、キラキラしていた。吸い込まれて、息を止めて、楽になりたいくらいだった。
数秒見つめ合った後、彼女はバッグをごそごそと漁り、そこからメモ帳とペンを取り出した。何やら書いて、一枚それを渡された。
メールアドレスと電話番号だった。
「悩みがあるなら聞くよ」
これが逆ナンか、と瞬時に思ったが、もしかしたら本気の親切心かもしれず、邪推はせずに受け取ることにした。
「ありがとうございます」
受け取った紙は心なしか少し温かかった。
もう一度、見つめ合い、彼女は「じゃあね」と言って駅と本屋から離れて行った。向かう先は住宅街の方だった。一人暮らしなのか、家族と暮らしているのか、どちらだろう。
財布に連絡先を入れている途中、宵月の顔が浮かんだ。可愛かったが、もう他人のようだった。交じり合った面積が減っていき、接しただけになり、離ればなれになり、シャボン玉のように浮き、風に流れ、夜空に消えていった。わずかにあったピンクの恋心が嘘のようだった。
では心はマスエさんに向いているだろうか。それも分からなかった。確かに彼女は魅力的かもしれない。でも、本屋に来た時と気持ちは変わらない。暗闇の中に、白い球体が浮かんでいるだけだ。俺は誰とも繋がっていない。
本屋から離れ、駅前の広場に自転車を停めて、ベンチに腰掛けた。宵月と出会った公園に行こうかなと思ったが、彼女との別れ方を今、考えたくなかった。
目の前にはタクシーがエンジンをかけながら客を待っていた。広場には騒ぐ大学生と、スーツ姿のおじさんと、スーパー帰りのおばさんたちが現れては消えた。消えた彼らの3分の1は駅に吸い込まれていった。帰路に着くのか、遊びに行くのか確かめようはない。おそらく彼らのほとんどが明日も存在しているが、確証はない。誰かは電車に飛び込むかもしれない。
友達は、首を吊った。電車には飛び込まなかったし、ビルから飛び降りたりもしなかった。なぜだろう。なぜ、首を吊る死に方を選んだのだろうか。家族以外の誰にも迷惑をかけないと思ったのだろうか。父親と母親に迷惑をかけたかったのだろうか。
そもそも本当に、首を吊って死んだのだろうか。首を吊ったというのは、噂でしか知らない。紅根の流した噂だ。手首を切ったり、薬を飲んだりしたのではないだろうか。そもそも自殺方法は、紅根が創作した可能性もある。
だが、紅根に聞く勇気も元気もなかった。電話をしたら、あの件はどうなんだと怒鳴られるかもしれないし、創作を見破ったらそれこそ殺されるかもしれない。彼女からしたら、あいつに関する真実も秘密も嘘さえ宝物だろう。嘘を吐いている気もしないが。
生きていればよかったのに。死なずに、ここで、俺の話を聞いてくれればよかったのに。音楽の話で盛り上がって、親の意見を無視すればよかったのに。失恋から立ち直ればよかったのに。秘密を共有できればよかったのに。
俺は俯き、顔を両手で覆った。涙は出てこない。風邪のときとは違い、頭はさっぱりしている。だが、心は暗澹としていて、どこにも行こうとしていない。家にも帰りたくない。
マスエさんの家に泊めてもらおうか。ありもしない悩みを聞かせて、甘えようか。
「おい」
俺の弱さを叩き壊すように、背中に衝撃を受けた。その衝撃は、紙袋によって与えられたものだった。顔を上げると、その持ち主はよくクラスで見る女の子。俺の元彼女だった。
「まだ体調悪いの?」
身長160センチもない元彼女を見上げたのは久しぶりだった。俺の心臓は音を立てて鳴っていた。
「体調は……悪くない。食欲はないけど」
「立ちなよ。立って、帰りなよ。風邪ぶり返すよ」
「立つ元気はない」
俺がそう言うと、彼女は隣に座った。毛先がカールした可愛い髪がすぐそばにあった。
「秋頃から変だよね。やっぱり、あれが原因?」
「分からない」
「なんか気取った言い方。彼女が可愛いとそうなるの?」
「気取ってるかな?」
「気取ってるね」
「りーちゃんこそ、クラスでは猫被ってない?」
「みんなそうじゃない?」
「夏目さんも?」
「なっちゃんもそうかもね。でも、友達の前では違うよ。私もこんな感じ」
俺は頷いた。
「で、帰らないの? それともさっきの女の人のところに行くか迷ってるの?」
見られていたか。
「見てたの?」
「本屋にいたから。ヒロこそ、本屋の中、じろじろ見てたでしょ」
気付かなかった。
「見てたけど、なんとなくね。理由はないよ」
「理由ないのに見てたの? 不審者?」
俺は声を出して笑った。
「不審者だよね」
「また気取った言い方して」
りーちゃんは紙袋を地べたに置いた。それで俺は不意に落ち着いた。
「今日は買い物?」
「まぁね。デートだけど?」
「デート⁈」
「そう。デート」
意外だった。意外だったが、ここ数ヶ月は意外な事実ばかりを知った。
おかげで免疫はあるはずだったのに、俺は自分が落ち込んでいるのに気付いた。
「男と?」
「当たり前でしょ」
「誰?」
「誰でもいいじゃん」
俺は頭の中でりーちゃんの周りをぐるぐると回ってみた。仲のいい男子はいただろうか。何人かいるかも。
「まさか田中とか?」
「田中? バスケ部の? あるわけないじゃん。彼女いるよ」
そうだよな。
「じゃあ、誰?」
「誰でもいいでしょ」
「教えてよ」
「嫌だね」
「俺の知っている人?」
「知らない人」
そっか。知らない人か。誰だろう。
俺が必死に考えているのをどう見たのか、少しの間を空けて、りーちゃんはあっさりと教えてくれた。
「年上。大学生」
俺はその言葉を繰り返した。
「年上。大学生」
意味はなく、何の効果もなかった。
「ねえ、何で死んじゃったの?」
「分からないよ。本当に。もしかして、という話はあるんだけど誰にも分からない。俺にもあいつの親にも分からない」
暖かそうな赤い手袋をしている。プレゼントだろうか。
俺はマフラーを外して、手に持った。
「全部、秘密だ。あいつは秘密をそのまま持っていった。俺にも教えてくれなかった」
「ヒロは、秘密教えてたの?」
「全く。深い話はあまりしなかったから。今思えば、すればよかった」
「秘密あるの?」
俺はりーちゃんの顔をじっと見た。そして、目線を外した。
「俺の秘密なんてみんな知ってるでしょ。りーちゃんと別れた理由がそれだよ。夏目さんには、ひどいって言われたよ」
「ははは。でも、それが秘密なら私以外、誰も知らないはずだよ」
「じゃあ、なんで俺はひどいのかねえ」
「ヒロくんはなんで私と別れたの?」
「言わなくても、みんな知ってるでしょ」
「ヒロくんは浮気したから、私と別れたの」
「いや、違うよ。浮気はしていない。ある意味、浮気をしたくなかったから別れたんだよ」
「違うよ。真実はそうでも、私はみんなに浮気が原因って言ってる」
「なんで? なんで、そんな嘘つくの」
「本当のこと言ったらバカじゃん。私って、どんな理由でフラれてんのよ。ヒロくんだって、学校いられないよ。いや、私のほうがいられないわ」
「つまり、俺の浮気が原因で、俺たちは別れたということになってるのか。心外だな」
「はあ?」とりーちゃんは言って、俺の腕を握った。「ヒロくんも分かってると思ってたのに。危なっ。本当のこと言わないでよね。私たち笑い者になるよ」
俺がすぐに頷くと、腕から手が離れた。残念だった。
周りを見渡すと、だいぶ暗かった。日が落ちて、夜だった。
あ、早くりーちゃんを帰さないと。いや、俺は彼氏でもない。こんはなこと思わなくてもいいか。でも、帰してやらないとな。
「暗くなったし、帰ったほうがいいよ。家族、心配するよ」
「大丈夫。連絡入れてるし、ヒロくんといたって言えばいいわ」
「なんで?」
「知らない。なんかうちの家族には評判いいんだよね、ヒロくんって。別れたって言ったら、お姉ちゃん、なんでか落ち込んでたわ」
「大学生とは付き合ってるの?」
「え? ああ、付き合ってない。でも、付き合うかも。またデートの約束したし」
「好きなの?」
「好きでもないのにデートしないでしょ」
りーちゃんはこちらを見て、ふっと笑った。
「する人もいるか」
「まぁね」
「彼女、可愛いよね。ファミレスで見たよ」
「うん。かなり可愛いね。でも別れると思う」
「なんで?」
俺はどこから話そうか悩んだ。宵月の性格か、思考か、俺の考えか。でも、どれも説明しづらい。……シンプルに答えるか。
「いつかフラれるし。付き合っていても、孤独だし」
「かわいそう」
でも、宵月もそこは分かっているはずだ。
「友達もいなくなって、しんどいよ」
「新しい人見つけなよ。さっきの人とか」
「俺は」と言いかけてやめた。話を少し変えよう。
「りーちゃんと別れるとき、酷いこと言ったよね。酷いこともしたし」
「別にいいよ」
「なんで? あんなに怒っていたのに。『君は恋人じゃなくて、お嫁さんにしたい』なんて、ひどいよね」
「ヒロくんは悪くないから。自分に正直なのはバカだと思うけど、そんなこと前から知ってたからね」
「いや、ひどいでしょ」
俺がそう言うと、沈黙が訪れた。りーちゃんはため息をつき、バイクはエンジンを吹かして去っていく。その音には誰も付いていかない。
「あのね」とりーちゃんは言って、また、ため息を吐いた。
「どうした?」
「最後ね、私、お嫁さんにしたい子って言われて『結婚するわけがないでしょ』って言ったよね」
「言ったね」
「あれね、いや、なんでもない。いや、やっぱり言うわ。殴っていいからね。ここじゃあれか、暗いところで殴る?」
「ごめん。さっぱり分からない」
りーちゃんも俺と同じで会話が飛んでしまう癖がある。
「……あの、あれ。黙ってたんだけど、あの、実は……浮気したのは、私。……ごめん。ごめんなさい」
世界が落ちていく。でも、俺はそれをすぐに認識して両手で土台から受け止めた。指を引っ掛けたのは地球平面説でいうところの象か亀のあたりだと思う。世界は落ちない。落としてたまるか。でも、俺自身を俺は支えられない。
俺はりーちゃんの手を上から握った。
「分かった」
りーちゃんはこちらを横目で見た。俺はその目を真剣に見た。目線を外されても見た。
「話せる? りーちゃんが今、話せるなら話してほしい。殴らないし、俺は泣かないし、落ち込まないし」
落ち込まないし、なんだろう。そうだ。
「俺は死なない。誰の秘密を知っても、それが俺を傷つけても死なない。俺は誰も残したくないし、ひとりで旅立ちたくない」
「私、最低だよ」
「それはりーちゃんが思ってるだけでしょ。俺はそうは思わない」
世界はまだ落ちない。ただ、ぐらぐらと動いてはいる。
「結婚するわけがないのは、私に資格がないから。結婚できるわけないってのが正しいか。でも、ヒロくんにも怒ってたからね。バカみたいな理由で、私をフってさ」
「うん」
次の言葉を考えているのか、りーちゃんはじっと地面を見ていた。俺は何も促さなかった。
一台のタクシーにスーツ姿の男女が乗った。手を繋ぎ、指を絡めていた。酔っているのか、上機嫌に騒がしいのが窓越しに揺れる人影で分かった。すぐそばにいるのに顔を近づけていて、今にも事が始まりそうだった。
俺は自分の手を見た。思っていたよりも、小さく細かった。りーちゃんの手は変わらず可愛かった。ちんまりとしていて、柔らかい。手袋越しにも分かる。
駅の世界がひと回りしても、俺たちは言葉を出さなかった。りーちゃんは泣かずにじっといた。俺も泣かなかった。悲しさより、二人がここにいる安堵感の方がまさっていた。
「どうしても断れなくて。いや、違う。一回だけならと思って。バレないかもと思って」
きっかけがなく、話し始めた。
「いつ頃の話?」
「私がフラれるちょっと前かな」
「相手は?」
「ヒロが知らない人」
「俺は知らないほうがいいかな?」
「どうだろう」
彼女は悲しそうに、どこか呆れるように呟いた。冷気に吐き出された言葉は、カラカラと音が鳴りそうなくらい、干からびていた。
「俺は知りたい」
「ネットで知り合った大学生」
大学生か。
「俺よりかっこよかった?」
冗談はまだ出てくる。しかし、せつない。
「ある意味ね。私たちより、大人だったから。ていうか、冗談やめてよ」
「ごめん」
「ネットで仲良くなった人で、オフ会しようってなって、それで遊んで、魔が差して」
「それで?」
「それで? ……それで、自己嫌悪して、連絡取らなくなって、ヒロにフラれた。自業自得というか、因果応報というか。バカみたいでしょ」
「バカじゃないよ」
「バカだよ。今日のデート相手、また大学生だし」
「ネットで知り合った?」
「違う。なっちゃんのお兄さんの友達」
夏目。夏目よ。
「そう。それが、りーちゃんの秘密か」
「うん」
「他に知ってる人は?」
「誰も」
紅根の気持ちが分かる気がするな。秘密の共有は、毒であり、快楽だし、時に薬だ。
「話してくれてありがとう」
「ごめん」
「俺の因果応報でもあるかも。でしゅ?」
「でしゅ、だって」
りーちゃんは俺を見ながら吹き出して、俺も笑った。
「ヒロくん自身に秘密はあるの?」
「俺に?」
「うん。秘密」
あるよ。
「ないよ。全部、正直にさらけ出してる」
「そっか。じゃあ、聞いたらなんでも答えてくれるの?」
「もちろん」
俺はまだりーちゃんの手に手を重ねていた。答えたくない質問はするなと念じながら、大昔に何度も感じた手に懐かしさを感じていた。
「私と別れた後、最初は誰とヤッたの?」
「高一のときに、別の高校の先輩と。他県の大学に行ったから、別れた。勉強ができる頭のいい人で、ほぼ体だけの関係だった」
「次は?」
「高二の春。これも別の高校の子。年下で、すぐに俺がフッた。泣いてた。自分が嫌になったし、りーちゃんと先輩の強さに甘えてたと思った。でも、仕方がなかった。先輩はどちらかというと、最初から割り切ってたけど」
「どうだろうね。分からないよ。意外と寂しくて傷ついていたかも」
「そうか。難しいな」
「次は?」
「宵月。あ、今付き合ってる子ね」
「なんだ。思っていたよりと少ないわ。業平くらいかと思ってた」
「夜這いの風習が残っていたら、そうかもしれない」
「現代に生まれて残念だね」
「そうだね」
「気取ってるわー」
そう言ってりーちゃんは笑った。秘密の暴露と懺悔ですっきりしたのかもしれない。ただ涙はすぐに出てもおかしくなかった。目薬でごまかしたいくらいだと思う。
「……じゃあ、そろそろ帰ろうかな。家族心配させちゃいけないし」
「そうしな。送っていこうか?」
「ううん。いい」
手が離れて、りーちゃんは立ち上がった。
「ヒロも帰りな。死ぬなよ。生きろ。秘密ができたら話せ。話せる人をつくれ」
「分かった」
「あ、紅根さんとか適任なんじゃない? デートしたんでしょ?」
「デートはしてない。でも、それもいいかもしれないね」
俺は立ち上がって、りーちゃんを見下ろした。りーちゃんは、決して背伸びはしないだろう。目も閉じないし、あの日のように俺の背中に腕をまわすこともない。
「じゃあね」
「風邪のこと気にしてくれてありがとう」
「病気には気をつけて」
「うん」
りーちゃんはバイバイと手を振って行った。俺は弱く振り返し、姿が見えなくなるまで見送って、またベンチに腰を下ろした。
世界はもう平穏で、平面から球体に戻り、回り始めていた。夜は暗く、外灯は明るく、人は歩いていた。たった一人か複数人で、時間を突き破って前に進んでいた。だが、俺は急に井戸の中に引き込まれていった。深く、月明かりは届かない。
俺は財布からマスエさんから貰ったメモを取り出し、破った。額を抑え、携帯を開き、紅根に電話をすると、彼女はすぐにとってくれた。
「分かったの?」
「恐らく分かった」
「なに?」
ああ、ダメだ。
「お、憶測の範囲から出ないけど。た、たぶん紅根に話すべきじゃ、ないけど」
「え? どうしたの?」
「そ、の前に、聞いて、ほしい」
実は昔、りーちゃんと付き合っていて、浮気以外の、俺のバカみたいな理由で別れて、だけど、やっぱり、りーちゃんのことが好きで、今、そこで久しぶりに話して、うれしくて、苦しくて、どうすればいいのか分からない。やり直したいけど、無理そうだ。だから苦しいし、死にそうだ。死なないけど、誰かにこの事を言わないと死んでしまいそうだ。だから、話していて、だから、だから、なんだろう。
紅根は途中から、相槌を打って聞いてくれていた。俺の拙く、支離滅裂な言葉はどう聞こえているのか。でも、考える余裕はない。
「連織くん。やることは簡単だよ。今から追いかけるんだよ。連絡先を聞くんだよ。フラれるかもしれないけど、だから何? 私だったらそうするし、連織くんにはそうしてほしい。分かった? 分からなかったらもう一回平手打ちしてやるからね。あなたも彼女も、まだ生きてるんだからね」
もう私にはできないことなんだからね。
そう言ったか、言わなかったか、判断できないまま電話は切れた。
あいつは、俺と友達のままでいたかったから秘密を話さなかったのかもしれない。でも、俺はりーちゃんとクラスメイトや元恋人のままいたくない。
つまり俺は、情けなくて、隠したい秘密を暴露しなければいけない。
誰のためでもなく、自分のために、正直に。
俺は少しずつ近づくりーちゃんの背中を想像した。そこには、切れそうになる息を、無我夢中に肺に押し込み、走る俺がいる。走り続けて、走り続けて、走り続ける。その後はどうなるだろうか。分からない。死の先も分からない。生の次も分からない。でも、進むことで解決することもあると、信じることにした。
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