闇の中で感じてごらん

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 私と彼の出会いのきっかけは、出版社に届けられた一通のファンレター。  水色の封筒で、上品な透かしの模様が入っているものだ。送り主は女性らしい。 『はじめまして、中原伊都(なかはら いと)と申します。龍樹(りゅうじゅ)先生の大ファンです』  龍樹は官能小説家である。 『私は昨年、中途失明しました』  気持ちが沈んだ。  私はこどもの頃から活字中毒だ。私が所持している五感のうち、失ったらどれが一番辛いかと訊かれれば迷わず視覚をあげるだろう。   そう思うと、淡々とつづっている数十グラムに満たない手紙の重みが増した。 『今までの日常が激変しました。どうか、龍樹先生ご本人による朗読会をして頂けないでしょうか』  手紙には自身のメールアドレス。封筒の裏書きには、住所のほかに送り主の署名があった。  私は、その手紙をカバンに潜り込ませた。  待ち合わせ場所にいた『中原』は予想に反して、男性だった。  朗読とはいえ、官能小説を読むということは耳目を集める。だから部屋を押さえたのだが、中原という男は多分誤解する。  今回はキャンセルしよう。  私は回れ右をしかけたが彼の近くにいたスタッフが「お連れさまがお見えになりました」と言っているのが聴こえてしまった。  中原は立ち上がると、私のいる方角に向かって正確に体を向け頭を下げた。  私はため息をついて近づく。 「はじめまして、中原伊都と申します。まさか、連絡をくださるとは思っても見ませんでした」  セクシーな声だった。耳元で囁かれてしまえば、私は簡単に濡れてしまう。 「はじめまして。龍樹を担当している編集者の、立木(タツキ)と申します。……あの。楽になさってください」  私が声をかければ、中原は姿勢を直した。  随分背の高い男性だった。  端正でありながら男性的な顔立ち。少しは見えているのかと思ったが瞳は動かず、白い杖が傍にある。  年齢は三十代だろう。着こなすには場数が要るオーダースーツを楽にまとい、ノーネクタイでも洗練されている。  オフィスワーカーとは思えないが、ビジネスマンだとしたら命令される側ではなく指示を出す側の人間に見える。  中原は微笑みらしき歪みを唇の端に浮かべてみせた。 「僕の面接は合格ですか」  その言葉に、はっとなった。  つい、じろじろと観察してしまったらしい。視覚を失っても、中原という人物が鋭敏な性質であることは間違いないようだ。 「龍樹へのファンレターを読ませて頂きました」    慌てて取り繕う。 「……貴方はなぜ、龍樹の小説を聞きたいのですか?」   彼からの手紙を見たときの疑問をぶつけてみた。  龍樹の作品は紙書籍だけではなく色々な電子書籍サイトにも卸している。読み上げアプリが同期されているサイトもある。  にもかかわらず、彼は肉声での朗読を望んでいる。  私は、彼の真意が知りたい。 「目が見えなくなったとき、世界と切り離されました。それでも手の中に残っていたものを、自ら締め出してしまった。闇に堕ちていた僕に光を与えてくださったのが、龍樹先生だったんです」  彼の言葉に、中途に光を失えばまずは失明したという状況に慣れるのが精一杯だったろうと思い至る。    人生勝ち組のような男が初めて味わった挫折だとしたら、あまりに大きい。  点字を覚えるのは、新しい言語を学ぶことだ。   一般人より知性が高いであろう男が、字を読むのすらままならない。どれだけ苦痛だったか。  ……龍樹の小説がどんな慰めになったのか。男性が読むなら一つしか使い道はない。  けれど。  私は覚悟を決めた。 「わかりました。個室をとっているので、そちらで朗読しましょう」  中原が立ち上がり、右手で白い杖を掴むと左手で私の腕に手を添えてきた。  どきりとしたが、健常者が失明者をエスコートする際のマナーなのだろう。  エレベーターが上昇していくにつれ、中原の表情が不審げなものに変わる。  きっと、私が会議室のようなものを予約していると思っていたのだろう。  遠慮なく私に顔を向けている彼。見えないはずなのに見られている感覚が半端なく、いたたまれなさから目を伏せる。  ……考えてみたら男性に官能小説を読み聞かせるとは、なんて淫らな罠に自分から飛び込んでしまったのだろう。  後悔が雲のように湧いてくる。  乗り降りする人々はだんだん少なくなり、最後には私達二人になった。空気が重い。  エレベーターから踏み出した靴が捉えたのは、ロビーのカーペットとは明らかに違う、ふんわりとした廊下の絨毯。静かに張りつめた、重厚な空気。  ジュニアスイートの室内に入った途端、彼は私の腰に手を回してきた。びっくりして距離を取ろうとしたのに、腕がますます体に巻きついてくる。完全に誤解されている。 「ヤ……!」  短く悲鳴をあげたら、中原に耳元で囁かれた。 「これで僕はタツキさんと同罪ですね」  遊びに乗ってあげようという、優位を確信した雄の態度。予想通り、低いのに艶がある声に私の体は反応してしまった。  容姿といい、私への距離感といい。中原が女性の扱いに慣れているのは間違いない。 「あの、中原さんが男性なんて知らなかったんです。朗読してあげようと思って部屋を取ったんです。……女性なら雰囲気も必要かなと思って」  言い訳をしてしまった。 「貴女は」  ひくり。私の喉が動いた。  獰猛なくせに、静かな声。牙を優雅に隠してみせるなんて、悪い男だと証明しているようなものだ。 「ラウンジの入り口で中原(ぼく)が男だと知ってためらった」  その通りだった。 「そのまま帰ることも出来たのに、近づいてきた。それから、僕に見惚れた」  否定出来ない。  惹かれる男が眼の前にいるのに、鑑賞する権利を放棄するほど私は意地っ張りじゃない。 「男と女が密室に二人という意味に気づかないほど、貴女は幼くはない」  笑いを含んだ声で挑発された。  瞬間。  浅黒い肌の男に組み敷かれる自分。  彼が私を愛撫するたび、その腕に背中にしなやかな筋肉が盛り上がる。熱い汗が彼から滴り落ちる。彼の腰が私の理性を溶かしていくように、揺さぶりをかける。  脳内に親密で淫らな光景が広がり、息が止まりそうになる。  中原が私をじっと観察している。   彼が浮かべている、ほのかな笑み。  私の振る舞い、呼吸。そんなものから、この聡い男は私が欲情しているのを看破っているんだろう。  だが。 「仰る通りですが、それで中原さんと私がどうこうなるかというと、別の話です」     大人のコミュニケーションを願う権利が彼にはあり、断る権利が私にはある。それだけのことだ。  権利を行使するべく私は彼の腕を引っ張り、リビングのソファにどすんと座らせた。 「貴方が龍樹の小説を読みたいと言った。だから私は、望みをかなえてあげようと思ったんです!」  隅に置いてあったトランクを彼の傍に移動させると、触らせた。龍樹の本が詰まっているトランク。彼が望む本を読んであげようと思って用意したのだ。  私は彼を見つめた。  場を支配している表情は、必死に足掻いているウサギが負けを認めるまで待ってやろうとする肉食獣のようだ。 「そうですね。貴女は僕にアトラクションを用意してくださっている。……お互いの意図は違っていたようだし、すり合わせは必要だけど」  中原は鷹揚に頷いた。  ほ。  私はひそかに息を吐き出した。とりあえずは、見逃してくれるようだ。  眼の見えないこの人と見える私。  彼の名前も住所も偽りかもしれないけど、あの出版社にもタツキなんて人間はいない。  セックスしてヤリ逃げできるのは私で、弄んだといわれるのも私のほう。  なのにこの人と抱き合えば、骨の髄まですすられた挙句、捨てられるのは私のほうだと確信してしまう。  このしなやかな獣を撫でたいと思う気持ちに偽りはない。でも、彼の牙に裂かれて喰われてしまいたいという覚悟はまだ、ない。  私は深く息を吸い込むと、静かに告げた。 「約束してください。私が貴方を欲しがらない限り、手を出さないと」  中原は、私が彼に惹かれているのと同じくらいに怯えていることを解かっていた。 「もうタツキさんは僕を欲しがっていると思うけど……」  なんて言葉が聞こえてきたけど、無視。睨んでいるのが雰囲気でわかるのだろう、降参というように彼は手を上げてみせた。 「約束します。貴女がOKしなければ、僕は手を出しません。このまま帰ってもいい。この先をどう進めるのか。タツキさん、決めるのは貴女次第です」  私は声が震えていないよう、願いながら訊ねた。 「わかりました。何を聴きたいですか」 「『闇の中で感じてごらん』を読みたい」   即答だった。  夫のいる妻が主人公。  彼女は、夫ではない男と密会しており、体を重ねるときは必ずマスクで眼を覆っている。自分を抱いている男が誰かわからないようにする為の決め事。彼女を抱いている男は声を出さないのがルール。  小説は、不倫相手の視点で進められて行く。  私はトランクから本を取り出して彼の向かい側に座った。本を開く音に、中原が心もち体を乗り出してきた。  中原の視線が私の服を脱がしていくようだ。吐く息が熱を帯びる。  しかし、最初の一頁を読みだしたら、私の声は落ち着いた。 『いつものホテル、いつもの部屋。  いつも君は僕より先に来て、待っている。  ドアを開けて僕を招き入れてくれるときには、既に目隠しをしている。  ふ、と僕の唇に苦笑が浮かぶ。  君越しに見える部屋は暗闇で、僕たちの未来に光がないことを示しているようだ。   僕を赦して欲しい。  見つめて、微笑みかけてくれないか。  君の頬に手のひらを添えて、愛しているとささやきたい。  だけど僕は喋らず、想いも闇に閉じ込める。  それが君の望んだことだから。  君は眼を閉じて、僕は言葉を封じてお互いの肌を貪りあう。  僕の愛を、闇の中で感じてごらん』  ふと、頁から眼をあげると中原はじいっと私を見つめていた。  慌てて首をひっこめる。  顔を隠すように本を高く持つ。  こっそり見ると、彼はゆったりとソファに腰かけていた。  長い脚を美しく組み、ひじ掛けに載せた腕で顎を支えている姿は芸術品を鑑賞している貴族のようだ。  彼は私を射抜くように見つめていた。熱く、焦げるほどに私を。  ごくりと喉を鳴らせば、中原がみじろぐ。  私が髪を耳にかければ、彼の視線が耳をなぶった。  どうしようもなく体が発火してくるのを感じてしまった。  見つめないで、と言っても『気にしないでください。僕には見えていませんから』と言うだけなんだろう。  中原が暗殺者(アサシン)のように足音を消して近づいてくる。  彼の欲情が私の理性を殺したがっているのはわかっているのに、動けない。  中原に視えているのならば、彼の前には瞳に欲望を宿して濡れた唇を半開きにしている私がいる。  貴方に心も体も奪われてしまいたい。  ぎしり。  とうとう中原が私の座っているソファの腰かけを掴んで囁いた。 「僕が欲しいかい」  小説の中の主人公の台詞だ。  これまでの逢瀬全て夫が妻を抱いていた、と初めて明かす言葉。  妻はこくりと頷く。遮光カーテンを開いて、マスクを外す。ラストは明るい光の中で、二人は抱き合う。 「いいえ」  だが、私はハッキリと拒絶した。    立ち上がると冷蔵庫に向かった。ミネラルウオーターを取り出し、ごくごくと一気に呑んだ。  喉が渇いているのは、話していたからだけじゃない。中原に視姦されていた体が、熱くて仕方ないからだ。  勃ちあがった乳首がブラジャーにこすれて、じんじんとしている。きっとショーツの中の秘処はしとどに濡れている。鼻の利かない私にでも、女の香りがわかるようだ。 「何故?」  中原は呟いたが、私も不思議だった。  彼に抱かれても、私は汚れないし傷つかない。  なにも減らない、女としての頁が増えるだけ。  しかしゲームは終り、彼は負けたのだ。……いや、私が負けたのだろうか? 奇妙な敗北感と寂寥感をかかえて、私は呟いた。 「さようなら、中原さん」  おそらく、彼と二度と会う事はないだろう。  私は本をトランクに収め、部屋から出ようとした。彼が私の背中に声を掛けてきた。 「また、読んで頂けますか」  追いかけてもらえた。  幸せの溜息を吐きそうになったが、気力でなんとか押しとどめる。私は頷いたけれど彼に伝わらないことに気づいて、言葉をつけ足した。 「わかりました。また連絡します」 「それから、一つ。僕からも条件があります」  中原は見えない眼を私に向けた。 「タツキさん、これからは下着を履かないで来てください」  私は息をのんだ。  そうはいっても私が約束を守っているのかわかるのは、中原に抱かれるときだけだ。  私はかなりの時間ためらってから息を吸い込み、彼の手に点字で書いた名刺を握らせた。それから中原をエスコートして、ホテルを出た。    こうして月に一度か二度、私と中原は会うようになった。  いつものホテル、いつものジュニアスイート。  下着は着けていない。  いつも中原は同じ小説を指定してきたので、いつも私は提案する。 「たまには他の作品を読みますか」  本をトランクに書物をぎっしり詰め込んで、この部屋に運び入れたのだ。  いつも中原は首を横に振った。 「龍樹先生の作品しか読みたくないし、今はアレが読みたいんです」  私が読み、中原は聴く。  私は文字に興奮しながら、中原に犯されていく。  彼は私の興奮した呼吸を聞き、雌の匂いを嗅いでいる。中原は、私が彼を欲しがっていることをわかっている。  私も彼が欲情しているのを知っていた。  彼の見えていない瞳も、汗ばんだ肌も、私が欲しいと声高に叫んでいた。身じろぎするボトムの内側で、なにが起こっているのかも想像するのはたやすかった。    次の逢瀬のとき、相変わらず中原の希望は変わらないだろうと思いつつも、私は相変わらずトランクを運び入れた。 「お前は」  中原が口を開いた。 「俺に絶頂に導かれるのを待ちわびている」  君がお前に、僕がお前になった。 「……伊都」  耳に届いたのは、彼の名前を喘ぎながら呼んだ自分の声だった。 「タツキは俺に奏でられているピアノだ。俺が触れれば、お前が謳う」  素敵ね。私たち二人だけの、共同作業。 「謳いたい。私を弾いて」 「タツキ」  彼が近づいてくる。私が介添えしなくても、カフェラウンジからこの部屋の中までなら自由に歩き回れるようになっていた。  私を見降ろしながら、一息に言った。 「俺が欲しいか」  聞きながら私に手を伸ばしてきた。彼の手が私の唇に触れたとき、ささやいた。 「伊都、私の本名は立木玻璃(たつき はり)。ペンネームで龍樹を名乗っている」  立木から龍樹(タツキ)。転じて「リュウジュ」と読ませた。本当のことを黙っていたなんて呆れられるだろうか。編集者のフリをしたことを憎まれるだろうか。  心配になりながら、彼の顔を見つめた。すると玻璃はふんわりと微笑んでくれた。 「知ってた」 「知ってたの?」  私はオウム返しに呟くことしか出来なかった。  玻璃は私を抱きしめてきた。 「失明して、なんとなく訊いていたラジオで女性が自分の小説を読んでいた」  唐突な彼の独白に私は固まった。 「龍樹という小説家で、BGMは彼女が好きだという曲だった」  私はナルシストなのかもしれない。自分の書いた小説を読むのが好きだったし、朗読することも好きだった。 「玻璃が描く人間は、バカで情けなくて愛おしかった。人生に裏切られて愚痴ったりしていたけれど、世界を愛する事をやめない。みんな苦しいんだと愚かだとわかった俺は、泣きながら新しい曲を口ずさんでいた」 「……え?」 「玻璃、好きな音楽家は?」 「cobw」  正しくは、In a corner of a beautiful world(綺麗な世界の片隅で)という人が造ったインストルメンタルが私は好きだった。 「俺が本人だ。お前のラジオを、玻璃が書いた小説を読んでから俺はまた音楽を作り出せるようになった」  思考停止した。  伊都は私を置いてきぼりにして語る。 「龍樹先生の小説は、音声アプリで夢に見るほど聞きこんだよ。でも違うんだ。俺の欲しいのは、ラジオから流れてきたお前の声だった」  だから、あの手紙。 「第一声を聞いたとき、まさかと思った。龍樹の編集者から声が掛かったってだけでも、ラッキーだと思ったんだ。それなのに、現れたお前は本人だった」 「でも、伊都は落ち着いている大人の男性そのものだった」  突然、鼻を掴まれてふが、となった。伊都が照れくさそうな顔をして笑う。 「可愛くない性格でね。夢中になってるときほど冷静な顔をしてるんだ」  なんてイヤな性格でひねくれてるのか。大好きすぎる。 「俺は逢う前から玻璃が好きだよ。逢ってからますます好きになった。いやらしいのに清純なフリをするのも、俺を可哀想な障害者だと思っていないところも」 「伊都」  呼びかけた。 「私は貴方の声や匂い、視線の熱さに抱かれていた」 「ああ」  彼の手が私の輪郭をなぞる。 「俺には、お前の顔も年齢も体型も関係ない。龍樹だろうがタツキだろうが、俺の玻璃であることに変わりはない」  伊都は妖艶に見える微笑みを浮かべて見せた。  ぐい、と腰をつかまれ立たせられる。そのまま抱き上げられたので、彼を寝室まで誘導した。ドサリ、と二人分の体重をベッドに預ける。服を脱ぐと伊都が私にのしかかった。 「待って」  彼が首を傾げた。 「なに?」  私は彼をそっと押しのけると、遮光カーテンを引いた。部屋が一気に薄暗くなる。きっと彼は音と肌感覚で、光が届かなくなったことを察している。  浴室からフェイスタオルを持ってきて、彼に渡した。 「私も伊都を知りたい。貴方が見ている世界を感じたい」  これから行う行為は、緊張を強いられる。けれど伊都と一心同体になる為の近道だった。 「玻璃」  伊都が涙を堪えているような声を出してきた。  愛おしい。この男がどうしようもなく、欲しい。  私がごくりと喉を鳴らせば、彼からも唾液を呑み込んだ音が聞こえてきた。 「俺の世界に入ってくるのに、カーテンは必要ない」 「え?」  彼は迷いもなく窓に近づくとカーテンを開けた。  ベッドに横たえられた。伊都は、タオルで私の目を隠す。 「いいよ」  彼の声に、つぶっていた目を開けてみれば世界は一変していた。 「……白くて明るい」 「これが俺達の闇だ」  想像と違う。  目をこらせば見えるのではないかと期待して、更なる絶望が待っている。  明るいことに、かえってパニックになりかけた。距離感がつかめない。怖い! 軽くがどこにいるかを見失った。方角すらも心もとない。脈が耳元で煩くて、なにも判断できない。右手が右の方向だということすら、あやしくなる。落ち着こうとする呼吸が更に緊張感を煽り、過呼吸気味になる。 「玻璃」  耳を必死に澄ませた。声のした方向に顔を向ける。彼の体臭を頼りに方角や距離を測る。肌感覚まで駆使して、恋人の場所を掴もうとした。  ……これが彼の世界。  優しい手が私に触れた。ひんやりと感じる。私の体が火照っているのだろう。  伊都が唇を舐める音。強くなってきた雄の匂いに、彼の興奮をかぎ取る。  彼の形をした熱が忍び寄ってくる。産毛が総毛だつ。毛穴が開いて、訳もなく発汗してくる。いやがうえでも興奮してしまう。  「玻璃。俺がお前を愛していることを知ってほしい。音と匂いや熱で。……親密な、この闇のなかで感じてごらん」  囁くと伊都は私を押し倒したのだった。  なぜだろう。闇の中なのに、私には彼が微笑んでいるのがわかった。  私も微笑みを浮かべているだろう。 「抱いて」  私は彼の首に腕を巻き付けて囁いた。  伊都の重みを受け止めながら、ゆっくりとベッドに沈んでいく。  私と彼は、自分を満たす為にお互いを奪いあう。相手を満たす為に与えあう。心が重なり、躰が共鳴しあう。伊都が私に触れてくる。  彼の、一つ一つの指が唇が愛が私を快楽に導く。歓びを歌いあげているのは私か、それとも彼か。  香しい香りが私たちを包む。  絶頂に至るまでの快楽が私たちを満たしていく。尽きぬ泉があとから湧いてくる。幸福が溢れ、私たちを覆っていく。  私たちは、一つになる。
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