事件編

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事件編

 今夜、この路地裏は殺人事件の現場になるのだろうな、と思った。暗闇ソムリエの先生が強く勧めているからだ。  聞き手は若い男性。胸に大きく髑髏が描かれたTシャツを着ている。安い死神だ。 「まさに灯台下暗し! 黒曜石よりも深い闇が視覚を奪い、フルボディの重厚な味わいがいつまでも記憶に残る。この路地裏はとっておきの場所なんです」  生ぬるい風が、先生の黒いロングスカートの裾を揺らしている。 「暴行、殺人、クスリの売買。何をやっても見つかりません。今はまだ夕方なので明るいですが、日が落ちたら真っ暗闇です。左右のビルはテナント募集中で明かりは無く、大通りの街灯も遠くて届きません。なんせフルボディの闇ですからね。分かりますか、フルボディです、フルボディ」 「先生、落ち着きましょう」  暗闇について語り始めたら止まらない先生を嗜めるのも、一応、助手である僕の仕事の一つだ。 「しかも駅から徒歩十二分の好立地! ややっ、人で溢れる新宿駅に近くて大丈夫なのか? って顔ですね。ところがどっこい、一寸先は闇と言うではありませんか。大丈夫、蛾が電気に集まるのと同じです。人間も暗闇に背を向けて、ギラギラした歌舞伎町に集まりますから」 「先生、ちょっと」  嗜めたところで止まりはしないけれど。 「ここはね、盲点なんですよ、盲点。ね、岩下さんにぴったりの暗闇でしょう?」  先生は早口で一気に喋った。女性の中でも小柄な先生は、髑髏のTシャツの男、岩下さんを見上げる形になる。体格差があるのに、先生の纏う空気が岩下さんを正面から強く押している。岩下さんは、信じきれない様子で眉をひそめている。 「本当にバレないのか? 繁華街に近いし、夜中でも人通りが無くなるとは思えないんだけど」 「ご安心ください! わたくし暗闇ソムリエが自信を持っておすすめする、最高ランクの暗闇です。新宿のど真ん中で、これほどまでの当たり闇は珍しいですよ。わたくしと、こちらの助手しか知らない秘密の場所です。たった今あなたも含まれましたが」  先生は僕と岩下さんを順番に指さした。 「さあさあ勇気を出して! ここでやっちゃいましょう!」 「先生、その辺にしときましょう」 「大丈夫かな……」 「何を迷うことがあるんです? 既に殺意は固まっているのでしょう? あとはザクッと、またはブスッと、あるいはグサッとやるだけですよ。パーンまたはバーンまたはドカーンでも良いですが、暗闇でも音がすれば通報されるかもしれないので、やはり刃物がおすすめですね。さあ、闇に葬ってしまいましょう!」 「先生、そろそろおやめになった方が」 「……」 「わたくしの話が嘘だと思うなら、報酬の支払いは明日で構いません。特別に後払いで良いですよ。わたくしはここの暗闇に自信がありますからね。岩下さんも極上の暗闇を味わえば、対価を払いたくなるというもの。今日のところは闇夜の提灯と思ってくださいな。ね?」
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