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「それなら、尚更やめとくわ。荷が重すぎる」
東はわたしの短い髪を耳にかけると、困ったように笑った。「悪い。一気に酔いが醒めた」──仰向けになったままのわたしを残して、ほんのりと甘いシトラスが離れていく。
「べつに……いい、ってば」
「俺が良くないんだよ。そんな、簡単に捨てていいもんじゃないだろ」
「……大切にするような、歳じゃない」
「幾つになろうが大切だろ、そういうのは」
乱れていた髪をさらに掻き乱し、ふんわりとしたニュアンスパーマが顔を出す。いつもは、ワックスで無理やり撫でつけているのだ。
「髪、あんまり固めないほうが似合うと思う。わたしは」
「余計なお世話だ」
長いため息が、間接照明ばかりが目立つ薄暗い部屋に響いた。
大切にしろよ、と怒ったように言われてつい反論したくなる。あんただけには言われたくない、って。
「大切にして……なにか意味、ある?もう29だよ」
どうして素直に身を任せられないのだろう。どうしてチャンスに身を投じられないのだろう。どうして──みんなが当たり前のようにしていることができないのだろう。
わたしはいま、同期でも同僚でも部下としてでもなく、一夜限りの相手としてここにいる。経験が豊富かどうか、魅力的な身体かどうかなんて、きっと、彼にとってはどうでもいい。
「意味は、あるだろ。どんなことでも、初めては特別なもんだし」
その横顔は憂いを帯びていて、可愛らしさなどは感じられない。特別で、大切にしたいものなんだ。東の「はじめて」は。
「この歳でやったことないのか、ってバカにしないんだ」
「しねえよ、そんなの、べつに」
「ふうん。意外」
「おまえは、俺をなんだと思ってるんだよ」
同期。上司。世渡り上手。遊び人。掴みどころがないくせに、他人の懐に入るのがうまい男。そして──。
「なんとも思ってない。だってわたし、東のこと嫌いだし」
わたしの好きな男、だ。
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