#6 四の五の言わずに宵の口

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 先週の水曜日、甘い雰囲気に呑まれて骨の髄から痺れたように動けなくなった。どうなってもいい、と思った自分が確かにいた。佐野さんの電話がなければ、やり方も彼の気持ちも知らないままに受け入れてしまっていたかもしれない。 「変な話、セフレ、とかさ。つばきちゃんには向いてないから、やめたほうがいいよ」  耳朶にカッと熱が差した。暗くてよかった。向かい合っていなくてよかった。動揺していると悟られたら、本当にそうなりかけてました、と言っているようなものだ。 「つばきちゃんは真面目ないい子なんだから、もっとちゃんとした恋愛しなきゃ。東さんの遊び相手になっちゃうのは勿体ないよ」  遊び相手、という言葉が、鉛のような重みを持って落ちてきた。セフレ、遊び相手。いままでの人生で無縁だった言葉たち。そんなふうにすら見てもらえなかった三年間。  誘ったのはわたしのほうだ、なんて小さすぎる矜持を振りかざしたりはしない。そういう気になれないと言っておきながら抱きしめて、キスをして、押し倒して、「かわいい」なんて吐いたくせに──結局のところ、東の心の中なんて分からない。 「ああいう人には、同じ価値観の、同じタイプの女性がいいと思う。つばきちゃんは違うよね」  そんなことは、ずっと前から知っている。  だけど、わたしは東がいい。ちゃんと恋愛するなら東がいい。もし、そう(・・)なる日が来るのなら、東がいい。  上司の顔も、会社の外の顔も、男の顔も、全部見たい。知ってみたいし知ってほしい。彼にまた「かわいい」って言ってもらえるのなら、いままで疎かにしていた「女」をぴかぴかに磨きたい。恋に浮かされたい。  そう思ってしまったのは間違いだったのだろうか。柔らかく遠回しな言い方ではあるが、はっきり分不相応だと言われているみたいだ。
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