#6 四の五の言わずに宵の口

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「混乱させちゃったかな。ごめんね」  左手に見えるのは大通公園のはずれだ。東西に長く、中心部に行けばこの時間でも賑わっているが、ここは不気味なくらいひっそりと静まり返っている。 「つばきちゃんが東さんを好きだって言うんだから、仕方ないよね。恋って傷ついてナンボってところあるし」 「傷つく前提、ですか」 「ああ、ごめん。本音が出ちゃった。あの人、つばきちゃんの手には追えないよ。ていうか、誰にも本気にならなさそう」  それ、あなたも同じ印象ですけど。そう言い返したいのをぐっと堪えた。  少なくとも、彼の初恋は本気だった。  あの痛そうな表情がそれを物語っていた。東にあんな顔をさせるなんて、どんな恋だったのだろう、どんな女性だったのだろう──知りたくないけれど、とても知りたい。全部見たいというのは、そういうことだ。  そして、それは怖いことだ。初恋以上の恋はできないし、する気もないよ、と言われてしまう可能性だってあるのだから。 「佐野さんは……本気だって、言うんですか」  思わず口から漏れてはっとした。佐野さんが小さく笑う。「俺、本気じゃないように見える?」。 「申し訳ないんですけど、そうは思えません」 「きついなあ。そういうところがいいよね、つばきちゃんは。俺の身分を知っても態度がまったく変わらない」  ゆるやかに漂う甘ったるいムスクに違和感をおぼえる。早く、あの爽やかなシトラスを嗅ぎたい。少しジャスミンの余韻が残る、胸をときめかせる香り。 「つばきちゃんみたいな子が奥さんだったら安泰だよね。胸を焦がすような、激しい恋愛じゃなかったとしても──ていうか、そういうのって疲れるよね。もう俺もいい歳だしさ」 「それは」  わたしのことを好きだとは言っていないですよね。飲み込んだ言葉を悟ったかのように、「そうだね」と佐野さんが微笑む。目尻の皺が深く刻まれて、それがどうも寂しそうに見えた。 「でも、いいな、と……すごく好ましい、と思っています。女性としても、職業人としても」  うまく返す言葉が見つからず、またしても曖昧な返事をした。この人といると、いつもそうだ。わざとそういう話し方をしているのだろうか。こちらが跳ね返しにくいように、逃げ道を作りにくいように。
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