#6 四の五の言わずに宵の口

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 テレビ塔が近づいてきた。どうやら会社に向かってくれているようだ。まだ東に連絡できていないことが気がかりで、バッグからスマホを取り出す。 「まだ残業してるの、彼は」  駅前通りにぶつかり、佐野さんが左折のウインカーを出す。ここまで来ればあと数分で到着だ。 「はい、たぶん」 「一応会社に向かってはいるんだけど、大人しく帰すとは言ってないからね。好ましいと思っている女性が、上司に遊ばれているのを看過できません」  大通公園の間を通り過ぎ、三つ目の信号で右折。会社の裏の路地に滑り込み、ややしばらくして停まった。佐野さん、と身体を右に向けると、「やっとこっち見てくれた」と手を重ねられ、握られる。 「もう一度訊くけど、ご飯、一緒にどうですか。もっと知ってみたいんだ、つばきちゃんのこと」  ここは裏口だから、出入りをする社員はそうそういないはず。だけど、もしこんなところを見られでもしたら──。  結構です。そう唇を動かす前に、真正面から抱きしめられた。ムスクが鼻をつく。この匂いじゃない、と嫌悪感が込み上げてくる。 「佐野さん、離して、」 「大切にします」  細身に見えていたのはスーツのせいだったのかと、その力強さに内心驚いてしまう。離してください、と胸を押し返してもびくともしない。 上質なスーツに染みをつけてはまずい、と真っ先に考えた自分に可笑しくなった。こんなときでも、佐野さんはうちのクライアントだ。 「君みたいな人を探していたんです。純粋で、一生懸命で、まっすぐで、自分を飾っていない女性。俺の、理想……なんだ」  淀みない声が少し震えた。背中に触れている手に力がこもり、じわりと汗が滲んでくる。エンジンを切っているせいだ。冷えた空気は、あっという間にどこかへ逃げてしまった。
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