#6 四の五の言わずに宵の口

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 理想──。  こんなことを言われるのは、人生の中で一度あるかないかだろう。それでも、ときめきはやってこない。  佐野さんは、理想の女性を探すために婚活パーティーにやってきたというのか。本当に?この人の置かれている環境であれば、もっと簡単で確実な方法があったはずだ。 「佐野さんは、どうして、そんなに結婚したいんですか」  なぜわたしなのか、の前にその問いが頭をもたげた。お兄さんが行方不明だということは、佐野さんが会社の後継者になりうるのだ。相手を慎重に選ばねばならない立場なのに、こんな決め方(・・・・・・)をしてもいいものか。 「俺との結婚を真剣に考えてくれたら、話します」 「じゃあ、いいです」 「即答だね」 「佐野さんのことをなにも知らないのに、結婚なんて考えられません」 「だから、食事に誘ってるじゃない」 「今日はだめなんです。いえ、今日じゃなくても……だめです」  見た目よりもはるかにがっしりとした胸板を押し返すけれど、やはりびくともしない。早く離れないと、ムスクが服に染みついてしまいそうだ。 「俺のことを知ったら、少しはちゃんと考えてくれる?」  飄々としている、というよりは、切実な声だった。佐野さんは、嘘と本当を見分けにくい話し方をする。わたしが営業職として積んできた経験など、この人の前では矮小かもしれない。だけど、その経験を踏まえると、いまのは「本当」だ。 「考える……余裕が、ありません」 「正直だね。片想い、辛くないの?」  あやすように頭をぽんぽんと叩かれ、どうしたらいいのかをまた見失ってしまう。他人ではなく、まるで歳の離れた弟妹に接するような。 「辛くない、って言ったら嘘になります。でも……激しくはないかもしれませんが、胸を焦がすような恋を、してます」  何物にもなれなかった三年間、肩を並べて仕事をしているだけで幸せだった。女扱いされなくたって、頼りにしてもらえるだけでいいと、巡り続ける「好き」をひたすら見送ってきた。
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