#6 四の五の言わずに宵の口

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 いまは違う。わたしの気持ちは、はっきりとした実体を持って彼に向いている。  笑ってもらえたら、しあわせが胸の内側から溢れる。触れてもらえたら、胸がひりついて痛い。胸を焦がすような恋とは、自ら歯車を回して初めて訪れるものなのだと知った。 「佐野さんの言うとおりなのかもしれません。それでもわたしは、東が好きです」  ふと垣間見える照れたような表情も、抱きしめてくれるときに微かに震えている腕も、「かわいい」も「うまい」も嘘じゃない。東は奔放だし子どもくさいけど、嘘つきじゃない。  貪欲になるというのは、傷つくのを恐れないということ。わたしは東に、遊ばれようとしている、のかもしれない。それでも、「好きな人に好きになってもらいたい」なんて途方もない目標を掲げておいて、なにも伝えないまま逃げ出したくない。この恋を、ひとりで消化するだけの──いままでの恋と、同じようにはしたくない。 「……参ったな」  困惑の苦笑いとため息が耳にかかって、佐野さんの身体が離れていく。解放されてほっとしたのも束の間、「真面目すぎるところ、ほんとに魅力的だよね」と顎を持ち上げられた。  涼しげな目は細められ、まっすぐにわたしを捉えている。このまま合わせ続けたら呑まれてしまいそうで怖くなったが、斜め下に目線を逸らすのが精一杯だ。 「そんなに真面目でまっすぐだと、いつか痛い目見るよ」 「見ても、いいです。好きだから仕方ないんです」 「俺、他の男への恋心をこんなふうに告白されたの、人生で二度目だよ」  佐野さんの苦笑いがくつくつとした笑いに変わりかけたとき、外から微かに錆びたような音がした。おそらくドアの開閉音だ。まさか、うちの会社の裏口だろうか。 「つばきちゃんがあまりにも真面目だから、それに免じてあげようと思ったけど」  佐野さんの視線がほんの一瞬逸れた。それに気を取られたわたしの手首を掴み、視線で射抜きながら顎を持ち上げる。 「ごめんね。ますますつばきちゃんが欲しくなった」  拒否する暇も、逃げる暇もなかった。唇を重ねられた、と認識したのは、腰を力強く抱かれた瞬間だった。
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