#6 四の五の言わずに宵の口

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「やっぱり勿体ないよ、子犬くんには」  慌てて離れようとしても、距離は縮まるばかり。身を乗り出されて、レザーが軋む音がする。強引なキスでもないのに振り解くことができないのは、佐野さんの腕と唇に完全に捕らえられてしまっているから。 「佐野さ……やめて、くださ」 「思ったとおり、全然男慣れしてない。……参ったな」  なにか言おうとすると上唇を絡めとられ、息をしようとすると苦い舌が歯列をなぞっていく。ん、と喉の奥から声が漏れて、その声の甘さに泣き出したくなる。こんなの、違う。嫌なのに、やめてほしいのに、抵抗する力を吸い取られていく。 「こんなかわいい反応されたら、止められなくなる」  いつもは流れるように穏やかな声が、熱がこもって掠れている。少しずつ明らかになっていく、佐野さんの「男」の顔に、全身が小刻みに震え始めた。  昼間、東にされたキスを思い出す。ほんの数秒間触れるだけのものだったのに、唇から甘酸っぱい気持ちが広がった。  好きな人と、そうじゃない人にされるキスは、こんなにも違う。触れ合いは幸せなものであってほしい。好きな人にだけ触れたいし、触れてほしい。  そう考えてしまうのは、わたしの経験が浅いから?経験豊富な女性なら、こんな展開でも楽しんでしまえるのかな。たとえ好きな人がいたとしても、他の男性を視野に入れられるのかな。 「さ、のさ……ほんとに、やめて」 「初めて会ったときと全然違う。つばきちゃんをこんなに可愛くしたのは、東さん?」  髪を撫でつけるように手のひらを滑らせて、パールのピアスを摘むように触れる。答えないわたしの唇を人差し指で撫でて、「本当に好きなんだ、東さんのこと」と囁く。 「は、い……だから」 「東さんは?好きだとか付き合おうとか、なにか決定的なことを言ってくれた?あんな時間にふたりきりでいるような間柄なんでしょ?」 「……それは」 「違うよね。遊ばれて終わるくらいなら俺にしなよ。つばきちゃんみたいに純粋な人が傷つくところを見たくない」  少し息を乱した佐野さんが、鋭い視線を逸らさずにわたしの両肩を掴んだ。その力強さが本気を物語っている。すぐ近くにある薄暗い外灯が、端正な顔の左半分をぼんやりと照らす。 「俺は──」  佐野さんがなにかを口にしかけたとき、コンコン、という軽い音が張り詰めた空気を打ち砕いた。窓の向こうにいたのは、今夜、一番会いたいと思っている人だった。
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