#6 四の五の言わずに宵の口

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 ひがし、と口から滑り落ちた。佐野さんが勢いよく振り返る。暗がりに浮かぶ東の顔は、ここからでも分かるくらいに引きつっている。 「……ごめん」  突然肩を離され、全身の力が抜けた。レザーシートに身を預けるような格好になってしまい、早く降りなくちゃ、と気ばかりが急いてしまう。 「完全に怒ってるね。つばきちゃんの上司」  コンコン、ともう一度フロントドアガラスを叩かれ、佐野さんが諦めたように笑った。ドアが開く音にはっと目が醒め、わたしも慌てて車の外へ飛び出す。 「お世話に、なってます。うちの高瀬が遅くまですみません」  東は、車の前方におずおずと姿を現したわたしに一瞥を飛ばすと、感情を抑えたような声で佐野さんに頭を下げた。こちらこそ、と短く返した佐野さんに、「部下のプライベートに立ち入るつもりはないんですけど」と切り出す。 「いまの、合意の上ですか?」  ビルとビルの間、下手をすると互いの顔も見えないような暗さ。車を背に三角形のような形で立ち尽くすわたしたちの姿を、誰かに見られることはおそらくない。 「どう、見えました?」 「高瀬の顔を見たら分かります」  一服したくなったのか、コンビニに行きたくなったのか。つい五分前まで仕事をしてました、という出立ちだ。ストライプ柄のワイシャツの袖を雑に捲り上げて、胸ポケットにボールペンを差して。  ──東に、見られた。  胸が締めつけられるような、じんわりとした痛みが全身に広がっていく。いま起きていることに頭が追いつかない。じっとしていられずバッグの持ち手を握ったり離したりを繰り返していると、「高瀬、こっち」と東に手招きされた。 「ひ、がし……」 「いいから」  ずかずかと歩いてきた東に二の腕を掴まれ、ヒールが引っ掛かってよろけてしまう。そんなわたしを当然のように受け止め、「おまえからもちゃんと挨拶しとけ」と厳しい声で続けた。 「次回からは私が担当させていただきます。経過については高瀬から引き継ぎを受けますので、ご心配なく」  普段の人懐こい笑顔はどこへやら、外灯に照らされた東の横顔は見たことのないくらい凛々しかった。状況を忘れて、胸の奥のほうが音を立てたくらいに。
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