#6 四の五の言わずに宵の口

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 そうですか、と穏やかな声が、蒸した夜風に溶けた。 「ひとつお願いしてもいいですか」 「どうぞ」  「僕は、つばきちゃんの情熱とセンスを買っています。ピックアップ記事はそのまま彼女に書いてもらいたい」  力が強すぎて、二の腕に指が食い込んでしまいそうだ。いや、その前に折れるかもしれない。こんなところでジム通いの成果を出さなくたって──なんて茶化したくなってしまうのは、現実逃避をしている証拠だろう。 「分かりました。その代わり、連絡調整は私が行います」 「それでは、以前いただいた番号とアドレスに」 「明日、こちらからご連絡します。進捗状況の確認もしたいので」  わたしの存在など消えてなくなってしまったみたいだ。このまま隠れてしまいたいと思っても、腕をしっかり掴まれているからそうもいかない。 「今日聞いてきた話、記事に盛り込めそうだねってつばきちゃんと話していたんです。東さんにも改めてお伝えしますね」  佐野さんは、とても有能な人だ。  忙殺されているはずなのにレスポンスは常に速く、こちらが見落としているような細かなところに気がつく。そのうえ、「この文章はここをひっくり返したほうがいいよ」「レイアウトを少し変えましたがどうでしょうか」なんて提案までしてくれるのだから敵わない。  社長のご子息という身分に胡座をかくなど、この人にとってはありえない。会社の成長を心から願っており、仕事に誇りと自信を持っている。なにより、愛がある。話の端々にそれが表れている。  佐野さんは、人材は宝だということを深く理解している。そういったクライアントにはなかなか出会えない。だからこそ、仕事という点だけにスポットを当てると、ほんの少し残念な気持ちが残る。どうしてあんなことを、と。 「お願いします。詳しいことは、また明日に」  東は、いま、どう思ってる?彼の心の中を想像しては足が竦む。守ってくれているのは、わたしが彼の部下だから。怒っているのは、彼との先約があったから。誰にでも簡単にキスさせる女なんだ、そう思われていても仕方がない。
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