#6 四の五の言わずに宵の口

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「明日から東京出張なので、午前中のうちにご連絡いただけると助かります」  唇はまだ、佐野さんの感触を忘れていない。早く消してしまいたくて唇を拭っても事実は消えない。一番見られたくない人に見られてしまった事実も、消えない。 ふたりきりになるのが怖い。どうしよう。佐野さんに教えてもらえよ、ってもう一度言われてしまったら──。 「佐野さん。最後に、私──いえ、俺個人として言わせてください」  二の腕を解放された代わりに、肩を強く抱かれた。あの、と見上げると「おまえは黙ってろ」と鋭い声が飛んでくる。 「高瀬に気安く触るな。こいつは、あんたが簡単に触っていい女じゃない」  行くぞ、と腕を引かれ、今度は躓きそうになってしまった。佐野さんが薄ら笑いを浮かべている。外灯が、それを寂しげに照らしている。 「東さん。俺からも、ひと言言わせてください」  先の尖った黒く滑らかな革靴がこちらを向いた。佐野さんが背にしている、彼の愛車と同じだ。光を存分に集めて、じわじわと照り返しているよう。 「真剣な気持ちには、真剣に向き合ったほうがいい」 「はい?……それ、どういう」 「思わせぶりは、とても罪深いですよ」  つばきちゃん、今日はありがとう。記事が書き上がるの、楽しみにしてるね。佐野さんはわたしに微笑みを投げてから運転席に乗り込んだ。まもなくして、大袈裟なエンジンの音が静かな路地を震わせる。  ──いまのは、わたしの、こと?  細長く伸びた真っ赤なテールランプが目に痛い。佐野さんは、味方なのだろうか、敵なのだろうか。わたしを恋愛対象として見ているのか、それすらも怪しい。さっきのキスに、恋情は含まれていたのか。 「……んだよ、あれ」  肩に触れた手に力がこもる。苛立ったようすの東に訊いてみたくなる。「わたしと佐野さんがどうにかなったら、嫌なの?」。  期待してしまう。佐野さんに教えてもらえよ、と言われなかったことに。守るようにずっと触れていてくれたことに。上司じゃない言葉で怒ってくれたことに。まるで恋人みたいだ、と心が跳ねてしまう。  あまりにも単純だ。ほんの数分前まであのBMWの中で、好きでもない人に絡めとられて動けなかったくせに。それを好きな人に見られて動揺していたくせに。
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