#6 四の五の言わずに宵の口

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「やっぱり俺が代わるか、一緒に行けばよかった」  ふいに抱き寄せられ、甘く爽やかなシトラスが鼻をついた。この匂いだ、と安堵感が込み上げてくる。背中に腕を回すと、身体が潰れてしまうくらいの力をこめられた。 「大丈夫か?怖かった、よな」  わたしを丸ごと包み込む体温にほっとして、膝の力が抜けそうになる。小さく頷くと、「ごめん」と掠れた声が返ってきた。 「どうして、東が謝るの?」 「佐野さんがおまえに気があることを知ってたんだ。俺の判断ミスだよ」 「……それは、上司と、して?」  言ってからはっとした。内心の期待が口をついて出たことを恥ずかしく思ったが、いまさら撤回することなどできない。 「さっき言っただろ。俺個人として……男として、腹が立ってるし、後悔してる」  ──こいつは、あんたが簡単に触っていいような女じゃない。  丸い目を尖らせて、中性的とも言える声を低めて、わたしの肩をしっかり抱いて──さっきの東、すごくかっこよかった。あの一瞬だけ、自分が彼の恋人になったかのように錯覚した。もしこの人の彼女になれたなら、こんなふうに守ってくれるのかな、って。  ──東さんは?好きだとか付き合おうとか、なにか決定的なことを言ってくれた?  注射を打たれたときのような、一瞬の鋭い痛みが胸を刺す。男として腹が立っているのは、どうして?芽を出した期待が小さく膨らむ。彼の気持ちは、どこにあるんだろう。 「東には……見られたく、なかったな」  少しだけ背伸びして、逞しい肩に顎を乗せる。好きだな、と思う。佐野さんに言ったことに、ひとつの間違いもない。  他の男性に抱きしめられてキスされているところなんて、絶対に見られたくなかった。ここにあなた以外の人が触れて、あなた以外の匂いをつけられたなんて信じたくない。東にとっては遊びでもなんでも、わたしはあなたしか見えない。あなたも、そうならいいのに。
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