#6 四の五の言わずに宵の口

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「見てねえよ」 「え?」 「なにも見てない。だから、安心して忘れろ」  優しく髪を撫でられて喉の奥が熱くなる。そんな声、ずるい。期待に勘違いが上乗せされるなんて、最悪だ。 「俺が書き換えてやる。佐野さんに触られたところ、全部」  両頬を挟み込まれて額をぶつけられた。あまりの至近距離に視界がぼやける。白い光が東の柔らかそうな髪を照らす。唇が、そっと重なる。  ここは?と腰に触れられて、頷く。ここも?と髪を梳かれて、頷く。筋張った手がすべて上書きしてくれる。まるで、魔法みたいに。 「俺に触られるのは、嫌じゃないか?」 「……嫌、じゃない」 「だけど、泣いてる」 「東が珍しく優しいから」 「俺はいつでも優しいだろ」 「性格悪いのによく言う」  ふっと笑った瞬間に、もう一度唇が重なった。カラフルなカプセルが弾けるように、甘い味が広がっていく。もっとこうしていたい。この人の匂いも感触も声も言葉も全部、わたしのものにしたい。 「もう、誰にも触られるなよ」 「東、は?」 「俺は特別」 「なにそれ」 「俺も、おまえにしか触らない。……ていうか、触りたくない」  このほっそい身体、癖になるんだよな。わざと冗談めかしたように紡がれたセリフが耳を通り過ぎていく。あと、おまえの匂いも。うなじに落ちた柔らかい感触に反応すると、「かわいいな」とため息をつかれた。 「……また、かわいいって言った」 「あ……いや、聞き間違いだろ」 「確かに聞いたし」 「言ってねえよ。俺はな、思ったことを簡単に口にはしないんだよ」  それって、そう思ってるってこと?完全に墓穴掘ってるんですけど。──言い返したかったけど、やめた。あまりにも嬉しいことが起きると、胸にそっとしまっておきたいたち(・・)なのだ。 「家まで送る。で、飯は明日に延期。俺のだからな、残しとけよ」 「でも明日、18時から打ち合わせ」 「終わったら、速攻帰る。残業禁止」  唇をなぞられてから口づけられて笑い合って、流れる空気の甘さに身体が痺れる。好き、が溢れ出す。いますぐに伝えたくなるくらい。 「食うの、楽しみにしてる」  彼の一言一句がわたしを浮き足立たせる。屈託のない笑顔に、心の中で問い質した。──遊びなんかじゃないって、思っていてもいい?
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