#7 恋に落ちる真夏の夜更け

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「函館に、出張」 「ああ」 「2泊3日で」 「そうだ」 「東とふたりで」 「そんなに嫌か?係長命令だから諦めてくれ」  外勤、気をつけて行けよ、と肩を叩かれて呆然と立ち尽くす。どうしてそんなに普通なの?わたしなんて、あまりの衝撃に息が止まりそうになっているというのに。 「お土産、チーズケーキがいいっす」 「わたしはトラピストクッキーがいいでーす」 「あれ、甘すぎるから却下」 「あの甘さがいいんじゃないですか。向井さん、わかってないなー」 「……ふたつとも買ってくるから。じゃあ、行ってきます」  こんなにエアコンが効いているというのに、変な汗が止まらない。今日の最高気温は33度。このまま外に出たら、メイクどころか全身が溶けてしまうのではないだろうか。  出張の機会は年に数回ある。各地域の営業所での研修会や勉強会に参加したり、札幌に支所を構える企業の本社を訪問するのが主な用件だ。そしてそれは、だいたい1泊2日──午後に札幌を出て翌日の午前中には戻っているという、ほぼ“とんぼ帰り”も珍しくない──の日程である。  ──2泊3日って、なに?どうしてそんなに長いの?  エレベーターホールは事務所に比べるとエアコンの効きが悪い。暗いスマホの画面に顔を映し、メイクがよれていないかをチェックする。このアイライナー、本当に水分に強いな。さすが口コミランキング第1位。  ──いや、落ち着けわたし。出張は旅行じゃない。れっきとした仕事だ。プライベートは関係ない。  それを証明するかのように、東の声や表情は憎らしいくらいにいつもどおりだった。こんなに動揺している自分がバカみたいだ。そもそも付き合っているわけでもなく、ただの同僚の域を出ていないわけだし。  ──でも、ただの同僚が抱き合ったりキスしたり、する?  昨夜、東が帰ったのは21時すぎのことだった。  後片付けを済ませ、缶ビールを出そうとした矢先に「俺、帰るわ。ごちそうさま」と言い出したのである。ちょっと、と引き留めたわたしに「来週も水曜日、空けておけよ」と早口で言い、風のような速さで去っていった。
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