#7 恋に落ちる真夏の夜更け

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 恋人になりたい、と決心した途端にこれだ。肩透かしを食らった気分になって、平日なのに3本も飲んでしまった。  キス以上はしなかった。それにがっかりしている自分に気づいたとき、浅ましくもそれを期待していたのだ、と恥ずかしくなった。時々訪れる甘い雰囲気は、しゃぼん玉みたいにすぐ割れてしまう。だけど、来週も水曜日はやってくる。東との約束は、やってくる。 「あ、でも……水曜日は、函館だ」  火水木で行くから調整しておけよ、と言われたことを思い出す。仕事とはいえ用件さえ終えてしまえば夜は自由。向こうの営業所の人たちに誘われたりしなければ、ふたりで飲みに行ったって──。 「逆に、チャンス、かも」  恋人になるためには、その前段階にエベレスト並みに高いハードルが聳え立っている。「好きです」と伝えることだ。それをどう越えるかが一番の課題なのだ。  東の彼女に、なりたい。一度芽生えてしまった欲を、願いを、押し殺すことはできない。  三年間も同じ係にいるのに、ふたりきりで出張に行くのは初めてだ。しかもこんなタイミングで。まるで、神様が「頑張れ」って背中を押してくれているような……。 「なにがチャンスなの?」  背後から軽快に肩を叩かれ、一瞬息が止まってしまった。この明るく可愛らしい声は、間違いなく彼女だ。振り向かなくても分かる。 「ま、いこ……びっくりした。おどかさないでよ」 「せっかくエレベーター来てたのに、行っちゃったよ?つばきったら、下向いてぶつぶつ呟いてるんだもん」  えっ、と顔を上げると、階数表示は「5」を指していた。残念ながら去ったばかりのようだ。到着を知らせる音が鳴ったはずなのに、まったく気づかなかった。 「ねぇ、それで、なにがチャンスなの?もしかして、恋の話?」  さらさらとした手のひらがわたしの腕に触れて、ほんのり甘い匂いが漂った。茉以子からは、いつも女の子の匂いがする。 「もう、どうしてそうなるの」 「だって、つばき、わたしになにか隠してるでしょ。しかも、ずーっと隠してる」  ゆるくパーマをあてた髪がふわりと揺れた。今日もピンク系アイシャドウで綺麗に彩られたぱっちり二重が、わたしを見ている。
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