#7 恋に落ちる真夏の夜更け

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 エレベーター、早く来て。その願いは届かない。しばらく「3」で止まったままの階数表示を睨みつけ、ため息を堪える。 「佐野さんとはうまくいってるの?結構気になってるんだけどな」 「う、ん……」 「あれ?前は全否定だったのに、今日は違うんだ」  唇の色が透けるようなピンクのリップが瑞々しい。いいな、可愛くて。何百回も思っていることを今日も思う。 「もし付き合うことになったら、真っ先に教えてね?応援してるんだから」  ベージュのノースリーブニットから伸びる二の腕はふんわりと柔らかそうで、女のわたしでも思わず触れたくなるほどだ。なにか違う話題を、と頭の中を攪拌している間に、「それとも」と内緒話をするようにわたしの手を握ってきた。 「つばきが好きなの、ほんとはべつの人?」  さっと血の気が引いて、まるで警鐘を鳴らすように胸の奥が痛んだ。つばきは意外と顔に出るよね、素直だから。前にそう言われたことを思い出す。 「そうだ。隆平くんと函館出張なんでしょ?いいなぁ」  このタイミングで東の名前を出されたことに驚きながらも、「急な話で参っちゃうよね」と返した。声が少し上擦ったような気がするけれど、ギリギリいつもどおり、のはず。「同期ふたりでなんて、気兼ねしなくていいね」と微笑まれ、ほっと胸を撫で下ろす。  茉以子には、未だに東への気持ちを話していない。話すタイミングなら見つかりそうなものだが、どうしても気が進まないのだ。  隆平くん、と呼ぶ可愛らしい声を聞くと胸騒ぎがする。簡単に下の名前を呼べて羨ましいだけなのか。なにか──見当がつかないので、なにか、と表現するしかない──が自分の中でストップをかけているのか。彼女の発する言葉にたまに含まれる、丸みを帯びた棘を向けられるのが怖いのか。  とにかく、茉以子から東の名前が出ると、得体の知れないもやもやとした薄黒い翳りが襲ってくるのだ。 「お土産買ってくるね。なにがいいか、あとで教えて」  エレベーターがやっと上昇してくるようだ。助かった、と思ったのも顔に出ていなければいいのだけど。 「あのね。今度、つばきに話したいことがあるの。あと、訊きたいことも……」  光を閉じ込めたような目がこちらを向いたとき、長方形の扉が静かに開いた。聞こえなかったふりをしてエレベーターに乗り込む。聞きたくない、と直感で思った。
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