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ついでを含めて三企業回り、帰社したときには定時を過ぎていた。これから残務整理と簡単な提案書を作成して、19時半には会社を出れるかというところだ。
「あ、これ、明日までだ」
外勤中に東が置いたであろうクリアファイルに挟まっているのは、例のSANOさんのピックアップ記事。随所に赤ペンの書き込みが見える。
佐野さんとはあれから、社用でもプライベートでも一切連絡を取っていない。連絡や打ち合わせといったいわゆる外的な担当は東で、記事や原稿の作成などの内的な担当はわたし。東が念押しで確認したが、この分担について異論はないとのことだった。
──あのとき、佐野さんはなにを言いかけたのだろう。
唇を撫でただけで、柔らかい感触と色濃く香るムスクが蘇ってくるような気がした。無理やり重ねられた唇が、掠れた声が、押さえつけるような力が、ただただ怖かった。でも──。
「なんか、切羽詰まってた、ような」
遊ばれて終わるくらいなら俺にしなよ。あれは冗談ではなかった、おそらく。米粒みたいな恋愛経験と、そこそこの営業経験を合わせて分析した結果だ。
なぜ、東を好きでいることとわたしが傷つくことがイコールだと考えているのだろう。この恋は、他人から見てもそんなに見込みがないのだろうか。
「高瀬さん、なにぶつぶつ言ってるんすか。怖いっす」
「わ、びっくりした」
突然頬に当てられた冷たさに飛びのきそうになった。横を向くと、向井くんがニヤニヤしながらペットボトルを手に立っている。
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