#7 恋に落ちる真夏の夜更け

29/34
前へ
/280ページ
次へ
「すっげえ綺麗になってた。それに、幸せそうだった。好きな男がいるんだな、ってすぐに分かった。それでも俺はバカだから、またあいつを好きになっちまって……二回告白して、二回振られた。大嫌いだって数え切れないくらい言われた。まあ、当たり前だよな」  東の初恋の人は、長い年月を挟んでもまた恋に落ちてしまうような魅力的な女性なんだ。  そう思うと、胸の痛みが涙になって溢れ出てしまいそうだった。繋がれた手を振り解いて、この坂道を一目散に駆け下りてしまいたいたくなる。こんな無謀な恋は、やっぱり早く捨てるべきだったのかもしれない。 「旦那が優秀な人でさ、東京の中央官庁に派遣されてんの。見た目も性格も言うことなしで、本当にいい男で。最後にその旦那と少し話して、幸せになってくださいって言えたんだ。それできっぱり吹っ切れて諦めがついて、いまに至るってわけ」  長ったらしい話、聞いてくれてありがとうな。彼がそっと足を止めた。顔を上げたら泣いてしまいそうだから、俯いたまま頷く。 「……やっぱ、引いた、よな」  わたしの指に絡むしっかりした指が、ほんのわずかに震えていた。温い風が木陰を揺らす。引いてなんかいない。こんな話を聞かされても、わたしの気持ちは変わらない。重症だ。 「高瀬──おまえの顔、見たい」  繋いでいないほうの手で頬に触れられ、思わず肩を震わせた。恐る恐る顔を上げると、いつになく優しい表情を浮かべた東が「可愛い」と呟く。 「高瀬には、格好悪くて最低な俺も知っていてほしい。だから話した」 「なん……で?」 「俺の全部を知ってほしいし、俺もおまえの全部を知りたい。傲慢でごめんな」  坂上まではあと少し。登りきってしまいたいのに足が動かない。それどころか、膝が震えて力が抜けてしまいそうだ。  東の言葉の意味が分からない。どうして、わたしに全部を知ってほしいの?どうして、わたしの全部を知りたいの?そんなことを言われたら勘違いしてしまう。だって、こんなの、まるで──。 「好きなんだ。引かれたとしても嫌われたとしても、俺は、おまえが好きだ」  潮の匂いが、ふたりの間をすり抜けていく。少し上擦って掠れた声が、矢のようにまっすぐ、わたしの身体に突き刺さった。
/280ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12606人が本棚に入れています
本棚に追加