#7 恋に落ちる真夏の夜更け

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 ふらりと目眩がした。意識が遠くなりかけて、繋いだ手の熱さで我に返る。口にしようとした言葉は、木の葉がさらさらと揺れる音に攫われてしまう。 「え、と……」  無意識に滑り出たのは、まったく意味のない間投詞だった。大袈裟に驚くでも冷静になるでもなく、ただただ頭の中が真っ白だ。いま聞いたこと、東の表情、自分の置かれている状況に至るまでのすべてを現実だと思えない。 「おまえをそういう目で見たことはなかった。信頼のおける同僚であり部下、それだけだった。だけど、おまえと過ごす時間が増えるうちに、おまえのことを少しずつ知っていくうちに、気づいたら好きになってた」  三年間、ずっとこの人だけを見ていた。自分の人生に起こるはずのない奇跡を願ってみたこともあった。  抱いてもらえなかったあの夜の虚しさはよく覚えている。ベッドの中でひとり、経験値の低さや可愛げのなさを呪った。遊び相手にすらなれなかった自分を恥じた。  無謀で無駄だと分かっていながら、気持ちを捨てることも消化することもできなかった。わずかな勝率に賭けたいと思っていた。こんな展開、一度だって想像したことがなかった。 「俺と付き合ってほしい。こんな話のあとで説得力がないのは分かってるんだけど、おまえのことを大切にしたい。気持ちも身体も一緒にいる時間も、全部」 「つ、きあう、って……なに、言って」  もう限界だった。下瞼に溜まった涙がひと筋伝うと、次々と雨のように流れ落ちてくる。これでは、アイシャドウもアイラインもマスカラもなかったことになってしまいそうだ。せっかく動画を見ながら練習したのに。 「高瀬、おい……そんなに、嫌なのかよ」  参ったな、と東が頭を抱えてため息をつく。違うの、と首を振れば目眩が蘇ってくる。気温のせいにしたい。疲れのせいにしたい。寝不足のせいにしたい。だけど、できない。これが誰のせいなのかは分かりきっている。
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