#8 801号室、夜半のふたり

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#8 801号室、夜半のふたり

 エレベーターを8階で降りて左に曲がり、突き当たりまで行くと801号室だ。わたしが泊まる部屋は、その手前の802号室。  丸いダウンライトとフットライトがほんのり灯る廊下は、冷房がよく効いている。どことなく新しい匂いがすると思えば、先月、ホテル全体の改築工事が終わったばかりだという。  予約完了のメールを受け取った直後に、どうして隣同士にしてしまったのだろうと後悔した。昨夜、うまく眠れなかったのはそのせいだ。壁の向こうの彼が、どう過ごしているのか気になってしまって。 「あの、一回、自分の部屋に」 「却下」  東はわたしの手首を掴んだまま即答すると、カードキーで801号室のオートロックを解除した。小さな電子音とともにドアの向こうへ引きずり込まれ、閉まったのと同時に身体の自由を奪われる。  同じ広さ、内装、配置。そのはずなのに、ウォールハンガーに掛けられたスーツやテレビの横に置かれたタバコとライター、漂うシトラスのせいでまるで違う部屋に思える。そして実感する。わたしはいま、彼の手中にいるのだと。 「返事、まだ聞いてない。俺の彼女になってくれる?」  握られて壁に縫いつけられている両手が熱い。ぱっちり二重瞼の甘い瞳に映っているのは、わたしだけ。狭い部屋に響く息づかいは、ふたつだけ。 「いい、の?わたし、美人でもないし色気もないし、処女、だし、あと、可愛げもな……」 「俺は、おまえがいい」  こんなに低い声、どうやって出してるの?耳朶を這う柔らかくほのかに湿った声と感触に、自分の中からなにかがじわりと溢れ出す。  ソファーに押し倒されたときと同じ感覚だ。あのときは未知のまま終わったけれど、今夜はきっと違う。わたしも知らないわたしを彼に見られてしまう、そんな予感がする。 「……わたしなんかで、よければ」  頷いた途端に唇を奪われる。「おまえはほんと、自分のことを全然分かってないよな」──ひとしきり口づけられて、突然身体が宙に浮いた。横抱き、いわゆる「お姫さま抱っこ」をされていることに気づいたのは、ベッドに下ろされる直前だ。
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