#8 801号室、夜半のふたり

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 消えかけたシトラスとサボンと混じり合う、汗の匂いが生々しい。絡まった指と口づけから熱が伝わって、猛スピードで体温が上昇する。  彼の舌が首筋や鎖骨をなぞるたびに声が漏れ、そのたびに「かわいい」と囁かれる。エアコンが入っていない室内は蒸し暑く、この状況と相まって汗が引くことはない。それでも、彼との距離は縮まるばかり。 「ひ、がし、待っ……あ、」 「彼氏なのに、名前で呼んでくれねえの?」 「そ、んな、急に、むり」 「呼ばないと優しくしない。でも、呼んでくれたら、たぶん暴走する」 「どっちにしろ優しくしてくれないんじゃない、あ、も、さわっちゃ、だめってば」 「ここ、もう立ってる。おまえ、やっぱり感じやすいよな」  新調したばかりの下着でよかった。そんな呑気なことを考えていられたのは五秒くらいの間だった。  すでにホックを外されていたのに気づいたのは、キャミソールとブラを一気にたくし上げられたときだ。いつ、どこで?混乱するわたしをよそに、彼の視線は一点に注がれている。  ついに、貧相な絶壁が晒されてしまった。その事実だけで逃げ出したくなるのに、真顔と無言が恐ろしくてたまらない。頼むから、そんなにじっと見つめないでほしい。 「お、ねがい……あまり、みないで」 「いや……見るだろ。彼女のだし」  彼女、という響きに小躍りしたくなったのはほんの一瞬で、相変わらずの態度に気が遠くなった。そのうえ、ちらちらと視線をずらしてはため息をついているのだ。  ふと苦い記憶が蘇る。「細いっていうか、薄くて固いね」。「女の子、って感じがしないんだよね。ごめん」。  きっと、東だって同じことを思っているはず。わたしなんかのどこを好きになってくれたのか知らないけれど、これ(・・)は間違いなくマイナスポイントだ。減点式でいけば、あっという間に0点になるくらいの。  せっかく起きた奇跡がなかったことになってしまう。それとも、少しでも夢を見させてもらえてよかった、って思ったほうがいいのかな。
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