#8 801号室、夜半のふたり

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──Side 隆平 「明日、朝市でも行くか?海鮮丼食いたいと思ってたんだ」  雰囲気を重くさせまいと苦し紛れに口にすると、つばきが目を細めて頷いてくれた。じゃあ早起きしなくちゃね、と笑いながら、俺が剥がした下着を拾っている。 「つばき」 「ん?」 「今週の土日、俺んちに泊まりに来たら」 「えっ、あ……今週は、ちょっと」  気まずそうに俯いた彼女の身体には、早くも水色のブラジャーが纏われていた。 ああ、現実に戻っていく。これで俺がワイシャツを羽織って、つばきがブラウスとスカートを身につけたら、あっという間に同僚という間柄に巻き戻ってしまう気がした。 「なんか、用事?」  口に出してから後悔する。会えないときの予定をいちいち訊きたがる彼氏とは如何なものだろうか。  セックスの経験だけは無駄に多いくせに、いわゆる「付き合う」のは人生で二度目だなんて──30手前の男が聞いて呆れる。立派な恋愛初心者じゃねえか、情けない。 「用事っていうか……実家を手伝うことになってて」 「実家?店でもやってるのか?」 「うん。北区で食堂やってるの」  どうせお盆にも帰るし、今回は断っちゃおうかな、でもなあ。顎に手を当てて唇を突き出している、いつもより子どもくさい仕草が可愛い。  新しくはない大衆食堂で彼女が定食を運んでいる姿を想像したら、胸の真ん中がじわりと温かくなった。手伝いとはいえ、そういうときも真剣なんだろうな、こいつは。 「約束してんだろ。俺とはいつでも会えるんだから、帰れよ」 「……でも」 「その代わり、今度、食いに行きたい。外勤のついででいいから」 「えっ、う、ちに?」 「べつにいいだろ、上司なんだし。彼氏って紹介してくれてもいいけど」  無理だよ、と両手で頬を覆う彼女の額にキスを落とす。それからそっと頭を撫でると、小さく頷いてくれた。 「お泊まり、平日でもいい?あ、でも」 「平日だと都合悪いのかよ」 「だって、出社しなきゃいけないでしょ」 「俺の車で一緒に行けばいいだろ」  特におかしいことは口にしていないはずなのに、どうして黙ってしまうのか。つばきの恥じらいポイントがよく分からない。さっきまで散々、もっと恥ずかしいことをしていただろうが、と言いたくなる。
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