#8 801号室、夜半のふたり

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──Side 隆平 雑に羽織ったワイシャツを脱ごうとしたところではた(・・)と気づいた。スウェット姿になどなってしまったら、仕事モードに戻れない。 「……一日中着てたやつ、もっかい着るのってなんだかな」 文句のような呟きを零しながらボタンを留め、バッグからタブレットを出した。例の原稿の最終版を開き、もう一度最初から目を通してみる。 「小さなまちから大きな未来へ 北の大地とともに30年」──キャッチコピーは、つばきと俺、そして向井で考えたものだ。時間外に間中が配ってくれたお菓子を食べながら、ああでもないこうでもないと雑談のような議論を交わして。 ミスがあったのは冒頭の部分だという話だが、ざっと読んだところ特になにも見つけられない。関連施設の所在地とか社員の名前とか、そういう根本的なところが間違っていたのであれば、俺には分かりえない話だが。 とにかく、本人に話を聞いてみないことには始まらない。テレビ台と一体になった狭いデスクに腰掛け、「佐野部長」をタップして耳に当てる。 「はい、佐野です」 なんと、実に三秒ほどで出た。佐野さんに3コール以上待たされたことはないが、今回は余程急いでいるということか。 「こんばんは、お世話になっています。東です。ご連絡が遅くなってしまい申し訳ありません」 「いえ、折り返していただきありがとうございます。出張中にすみません」 電話の向こうは張り詰めたように静かだ。その中で微かに書類を捲る音が聞こえ、残業しているのは彼ひとりなのかと推測する。 佐野さんは人事部長だ。時間外勤務の縮減を求めなければならない立場であり、サービス残業を認めるわけにもいかない立場。電話口から流れるどこか寒々しい空気は、彼が部下の残業をできるだけ取り締まっているせい、なのだろうか。 以前訪れたことのある、SANOの本社ビルを思い出す。うちの会社の前の大きな通りを東に進み、川を渡ってまもなくの場所に建つ全面ガラス張りのビルだ。  体のいい言い方をすれば「レトロ」な外観の、うちの自社ビルとは対照的なその中では、「和気藹々」な雰囲気などは流れていないのかもしれない。部下に舐められるようなことは一生ないんだろうな、この人は。  
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