#8 801号室、夜半のふたり

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──Side 隆平 「あらかたの話は弊社の向井から聞きました。私の社用携帯に連絡していただければよかったのに」 「つばきちゃんとふたりで出張中だと聞いたもので、お邪魔かなと思い躊躇ってしまいました」  爽やかな低音で繰り出されたセリフを、つい深読みしてしまいそうになる。相変わらずの「つばきちゃん」という呼び方と、引っ掛け問題を投げているような言い方。食えないこの男らしい。  どういう意味だと言ってやりたいところだが、いまはそれどころではない。彼女との時間を投げ打たなければならなかったくらいの案件なのだ。 「着信を残していただければ必ず折り返しますので、いつ掛けていただいても結構ですよ。このたびは、ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません」  脳味噌の足りていない俺なりに跳ね返したつもりだ。邪魔ではないと言えば大いに語弊があるが、ミスをしたのはこちらのほう。私的な感情は一旦忘れるべきだろう。 「それでは、次からはお言葉に甘えます。さっそくですけど、今回の件はつばきちゃんに対応してもらえるんでしょうか」 「いえ、私が」 「あれ、そうなんですか。記事の内容についてなので、てっきりそうかと。つばきちゃん、そこにいないんですか?」  まるで見透かしているような言い方にぞっとする。見ていたわけじゃないよな、なんて──バカか俺は、ありえないだろ。ここ、函館のホテルの8階だぞ。 「もうこんな時間ですので、高瀬は自分の部屋に戻っています」  残念だったな。いまはいない。だけど、さっきまではここにいた。  みっともなく皺の寄ったシーツと丸まった布団は、つばきがいつの間にか綺麗に直してくれていた。当たり前ながら最初のベッドメイキングのように整ってはおらず、その痕跡すら彼女の存在を残しているように思える。  そう強い香水などはつけていないはずなのに、彼女が部屋に入る前と後では匂いがまったく違う。爽やかで清潔感のあるサボンの残り香が鼻を擽って、会いたい、と強烈に思う。 「そうですか。意外と、お仕事とプライベートの線引きはきっちりされているタイプなんですね」  これは嫌味か、褒め言葉か。十中八九前者だろうな。そうではない空気(・・・・・・・・)を確かに感じ取っている、そういう声色だ。
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