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#9 うだる暮れに嘘を知る
それは、途方もない目標のはずだった。
自分の中で消化せずに、好きな人に好きだと伝えること。好きな人に好きだと言ってもらえること。そして、その人と恋人になること。
未だにすべてが夢みたいだ。あの函館の夜から、すでに一週間が経とうとしているというのに。
「つばき、キッチン入っていい?」
サックスブルーのワイシャツ姿の隆平が、冷蔵庫の前から遠慮がちに声を掛けてくる。
ちょうど、温めた鶏そぼろをレンジから出したところだった。今晩の献立は、三色丼と春雨サラダ、大根ときのこのお味噌汁だ。
「いいよ。ちょうどいいから、冷蔵庫からサラダ出して……ひゃっ」
調理台に向き直った途端に背後から抱きすくめられ、スプーンを落としてしまった。
掬ったばかりの鶏そぼろが散らばる。もう、と顔を顰めると、「だって、あれから全然触ってねえもん」と子どものような声が返ってきた。
「しょうがないじゃない。出張の皺寄せで金曜日は残業、土日は会えなくて、昨日も残業で」
「そんなの、分かってるっつうの」
さらに不機嫌な声で返されひやりとしたのは一瞬で、「やっぱりおまえとこうしてると、落ち着く」と彼氏みたいなことを言われた。みたいな、じゃなくてそうなのか。ほんの1週間前まで──ていうか1時間前までは、ただの上司だったのに。
「つばき、こっち向いて」
「……やだ」
「俺のこと、嫌い?」
キッチンに満ちていた醤油や味噌の匂いが、甘いシトラスに上書きされていく。黙って首を振ると、頬にキスを落とされた。うっかり彼の方を向いた瞬間に、唇にも。
「キスすんのも、久しぶり。飯はまだいいから、こっち来いよ」
耳元を擽る、低められた声がこそばゆい。「つばき」と念押しするように呼ばれて、つい陥落してしまいそうになる。
だから、だめなんだってば。ご飯もよそったし、お味噌汁だって温めたし、作ったばかりの炒り卵からは湯気が立っている。もうすっかりお腹が空いているんだけど、隆平はそうじゃないの?
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