#9 うだる暮れに嘘を知る

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「食べてから、でいいでしょ。もう、ここまで用意しちゃっ……や、っ」 「ここの痕、消えちまったんだな。もう一回つけていい?」 「だめ……も、キッチンでこんなこと、しないで、ってば」 「そんな声出しといてよく言う」  うなじにかかる髪を優しく避けられる感覚と、そこに触れる柔らかな温度に身震いする。 「嫌?」「そんなの訊くの、ずるい」「おまえが、やだとかだめとか言うから」──唇の感触に夢中になっている隙に、彼の右手はわたしの胸へ。エプロンの上から撫でるように触れられ、あの夜を思い出す。  旅先の夜は特別だ。自分の部屋ではない場所で自分のものではないベッドで眠る。それだけでも多少は浮かれてしまうのに、あんなことがあったのだから尚更だ。  男性と、初めてまともに身体を重ねた夜。802号室に戻り狭いユニットバスでシャワーを浴びたあと、身体の内側から造りかえられてしまったような感覚に包まれた。胸元や鎖骨に散らばる花のような痕も、ひりひりと痛む脚の間も、熱の抜けきらない頬も。  壁の向こうの彼はそれどころでないと分かっていても、触れられたところが疼いてうまく眠れなかった。もっと一緒にいたかった。あれ以上のことを、してほしかった。 「つばき、身体の力抜けてる」 「だ、って……隆平の、せい」 「そんな反応されたら、マジで我慢できないんだけど」 「でも、ご飯が」 「俺は、おまえも飯も食いたいの。だめ?」 「だめ、っていうか……」  ──いつもおまえの家ばかりで悪いから、明日は俺んちに来いよ。んで、泊まってけば?  昨日の残業帰り、駅からマンションへ向かう途中にそう提案された。これから残業帰りは家まで送るから、と当然のような顔で言われたのだ。  泊まってけば、のひと言がなにを意味するのかは、さすがにもう分かった。あの夜の続きがしたい、暗にそう誘われている。  ──ごめん。また、次にしてもいい?明日はうちにしよっか。なにか作るね。  そう突っぱねたのには理由があった。だるく痛む下腹部を押さえながら、自分の間の悪さを呪う。 ここまで来ると、神様がわたしのはじめて喪失を妨害しているみたいだ。罰当たりなことをした覚えはないんだけどな。
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