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「佐野さん?」
ありがと、とそれを受け取ってひと口啜る。少し煮詰まっているような感じもするけれど、無料の割には美味しいと評判だ。
「隆平くんから聞いてない?昨日発行分のピックアップ記事、ミスがあったって」
紙コップに左手を添え、「なんとかなってよかったよねぇ。ヒヤヒヤしちゃった」と茉以子が続けた。なんのこと、と零すと、「わたしも詳しくは知らないんだけど」と目線をずらす。
「水曜日の19時半くらいだったかな。こっちのチームで残ってたのはわたしと久保くんだけで、そろそろ帰ろうかなって話してたのね。で、佐野さんから電話が来て、向井くんに代わって……元々声おっきいのに、事務所中に響き渡ってたよ。えっ?!って」
「水曜……」
「隆平さん隆平さん、って泣きそうになりながらあわあわしてるから、思わず笑っちゃった。間中ちゃんにまで、ちょっと落ち着いてくださいって言われてたし」
水曜日の19時半──わたしと隆平は、801号室のベッドの上で睦み合っていた。ときどき視線と甘い言葉を絡ませて、恥ずかしい顔も声も暴かれて。
向井くんからの電話がなければ、最後までしていただろう。もしできていたら、こんなに疑心暗鬼にならずに済んだのかもしれない。そう考えた日もあった。
「そのあとすぐに隆平くんに電話して、切ったあと、よかったあって机に突っ伏して。やっぱり隆平くん、自分で思ってるより頼りにされて……つばき?」
「知らない。それ、ほんとにSANOの件?」
「うん。あの佐野さんが、電話越しでも分かるくらい焦ってたから。ていうか、つばきの担当、じゃないの?」
コーヒーの苦味が広がっていく。口の中から喉を通って胃へ、さらには全身へ。あのとき、熱を持て余したまま交わした会話はどんなものだっただろう。大したことではなかったような気がする。
──隆平が担当のところ?
──ああ、やっちまったよ。
──わたしが手伝えること、ある?
──……いや。
いつもとは違い、頑なに詳細を話そうとしなかったから違和感はあった。だけど、上司の自分がミスしたことを部下のわたしに知られたくないのだと納得した。SANOの件だとは、匂わせてすらいなかった。
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